「日本で放送されたメキシコアステカでの女子サッカーの試合・・メキシコとどこの対戦で何の大会だったか覚えておられる方おられるでしょうか・・。」という2008/11/ 5 9:40 (No.1730)のtetsuchan2006さんの投稿に対して。
千田善著「ワールドカップの世界史」(みすず書房2006年4月発刊)、アルフレッド・ヴァール著、大住良之監修「サッカーの歴史」(創元社2002年1月発刊)によると、女子サッカーが始まったのは古く、イングランドやスコットランドでは1890年代にはプレーされていたようです。
男子が戦争に駆り出されていた第一次大戦前後には、弾薬工場の女子チームが主催した負傷者救援の為のチャリティ試合に5万人以上が集まり、入場出来ない慣習が1万人以上出たそうです。
フランスやアメリカに遠征して男子チームを破るなど、女子サッカーの人気は爆発的に広がり、フランスでも女子サッカーのチャンピオンシップが1920年代に開催されました。1920年、パリのパイシング競技場で開催されたフランス対イングランドの国際試合には1万2千人もの観衆が詰めかけました。
しかし、戦時中のプレーを誉める声や、女性にも自由にスポーツする権利があるという声もある一方、女性が足をむき出しにしてプレーすることを嘆いたり、女性がサッカーに根注すると家事が疎かになると非難したりする声が大勢を占め、1921年FAが女子には不適切だとして女子サッカーを禁止、男子チームにも女子チームへグラウンドを貸したら処分するといった通達が出されたことから、30年代にはほぼ完全に消滅したようです(それでもラグビー・グランウドなど場所を転々としながら女子サッカーは続けられたとの記述もあります)。
1960年代北欧を中心に女性の社会進出が始まったことを背景に、その地域を中心に女子サッカーは復活し、66年イングランドが優勝したW杯を切っ掛けにしてイングランド、フランス、イタリアなど欧州でブームとなりました。
FAは1970年にグランド使用禁止を解除し、ドイツやオランダでも女子サッカーは解禁されました。「初の女子サッカー選手権開催」は70年7月6日から15日まで、イタリアのジェノバ、ボローニャ、ミラン、バリ、サレルノ、ナポリ、トリノで開催された『コパ・デル・モンド1970』という大会のようですね(参加はイングランド、西ドイツ、チェコスロヴァキア、メキシコ、オーストリー、スイス、イタリアの7カ国で、優勝はデンマーク)。
また、「メキシコのアステカで10万人近い観客の前での女子サッカーの試合」というのは、1971年メキシコで開催された『ムンディアル1971』という大会だったようですね。参加はイングランド、アルゼンチン、メキシコ、デンマーク、フランス、イタリアで決勝は、デンマークがメキシコを3-0で下して優勝していますが、この試合はエスタディオ・アステカに11万人を集めて行われていますから、放送されたのは恐らくこの試合でしょう。
ナショナルチーム同士の公式の国際大会は、1975年香港で開催された「アジア女子サッカー選手権」が最初(参加はタイ、豪州、シンガポール、ニュージーランド、マレーシア、香港の6カ国で、優勝はNZ)で、欧州は84年の開始(優勝スウェーデン。非公式大会は1979年に開催されており、優勝はデンマーク)、南米は91年(優勝ブラジル)、北中米も91年(優勝米国)、アフリカも91年(優勝ナイジェリア)で、ワールドカップも1991年から開催されています(初代女王は米国)。
千田善著「ワールドカップの世界史」(みすず書房2006年4月発刊)、アルフレッド・ヴァール著、大住良之監修「サッカーの歴史」(創元社2002年1月発刊)によると、女子サッカーが始まったのは古く、イングランドやスコットランドでは1890年代にはプレーされていたようです。
男子が戦争に駆り出されていた第一次大戦前後には、弾薬工場の女子チームが主催した負傷者救援の為のチャリティ試合に5万人以上が集まり、入場出来ない慣習が1万人以上出たそうです。
フランスやアメリカに遠征して男子チームを破るなど、女子サッカーの人気は爆発的に広がり、フランスでも女子サッカーのチャンピオンシップが1920年代に開催されました。1920年、パリのパイシング競技場で開催されたフランス対イングランドの国際試合には1万2千人もの観衆が詰めかけました。
しかし、戦時中のプレーを誉める声や、女性にも自由にスポーツする権利があるという声もある一方、女性が足をむき出しにしてプレーすることを嘆いたり、女性がサッカーに根注すると家事が疎かになると非難したりする声が大勢を占め、1921年FAが女子には不適切だとして女子サッカーを禁止、男子チームにも女子チームへグラウンドを貸したら処分するといった通達が出されたことから、30年代にはほぼ完全に消滅したようです(それでもラグビー・グランウドなど場所を転々としながら女子サッカーは続けられたとの記述もあります)。
1960年代北欧を中心に女性の社会進出が始まったことを背景に、その地域を中心に女子サッカーは復活し、66年イングランドが優勝したW杯を切っ掛けにしてイングランド、フランス、イタリアなど欧州でブームとなりました。
FAは1970年にグランド使用禁止を解除し、ドイツやオランダでも女子サッカーは解禁されました。「初の女子サッカー選手権開催」は70年7月6日から15日まで、イタリアのジェノバ、ボローニャ、ミラン、バリ、サレルノ、ナポリ、トリノで開催された『コパ・デル・モンド1970』という大会のようですね(参加はイングランド、西ドイツ、チェコスロヴァキア、メキシコ、オーストリー、スイス、イタリアの7カ国で、優勝はデンマーク)。
また、「メキシコのアステカで10万人近い観客の前での女子サッカーの試合」というのは、1971年メキシコで開催された『ムンディアル1971』という大会だったようですね。参加はイングランド、アルゼンチン、メキシコ、デンマーク、フランス、イタリアで決勝は、デンマークがメキシコを3-0で下して優勝していますが、この試合はエスタディオ・アステカに11万人を集めて行われていますから、放送されたのは恐らくこの試合でしょう。
ナショナルチーム同士の公式の国際大会は、1975年香港で開催された「アジア女子サッカー選手権」が最初(参加はタイ、豪州、シンガポール、ニュージーランド、マレーシア、香港の6カ国で、優勝はNZ)で、欧州は84年の開始(優勝スウェーデン。非公式大会は1979年に開催されており、優勝はデンマーク)、南米は91年(優勝ブラジル)、北中米も91年(優勝米国)、アフリカも91年(優勝ナイジェリア)で、ワールドカップも1991年から開催されています(初代女王は米国)。
イビツァ・オシムは、1991年7月、パルチザン・ベオグラードを率いて来日しています。「日本サッカー史資料編」を見ていて気付きました。
7月18日は大宮サッカー場で日本代表と第1戦を戦い1-1で引き分けています。どちらの得点もDFの選手で、パルチザンが32分、ブディミール・ブヤチッチ(27歳、190/84)、日本が現ヴェルディ監督、柱谷哲二(36分)です。
7月20日三ツ沢での第2戦は1-0。50分に、現レアル・マドリード、スポーティング・ディレクターで、当時期待のストライカーだったプレドラク・ミヤトヴィッチ(22歳、177/73)が決めています。
私はオシムの来日は、1964年の東京五輪以来だとばかり思っていましたが、90年のW杯でユーゴをベスト8に導き、騒乱のユーゴ情勢の中、引き続き代表監督を務める傍ら、パルチザンの監督を兼任していたこの時期、来日を果たしていました。
『イビチャ・オシムの真実』の中でオシムは、「当時、私はパルチザン・ベオグラードの監督でもあったが、惜しくもリーグ優勝をレッドスター譲ってしまったところだった。当時は引き分けの後に必ずPK戦をしていた。それで勝ちが勝ち点1、負ければ0。その結果、勝ち目のないアウトサイダーのチームはPK戦に持ち込むべく、守備一辺倒の試合をしたものだ。」と語っています。
パルチザンはPK戦を7度戦い3勝4敗、リーグ順位は3位でした。このシーズン、サヴィチェヴィッチ、ミハイロヴィッチ、プロシネチキ、パンチェフ、ベロデディチ、ジュキッチ、サバナゾヴィッチなどを擁するライヴァルであるレッドスターはリーグだけでなくチャンピオンズ・カップも制覇しています。
オシムは、W杯イタリア大会でアルゼンチンとのPK戦を控え室で待って以来、ずっとピッチを去るようになりました。たった一度、2001年1月のシーズン中断期間に行われたトルコ・アンタルヤ・カップの決勝で、シュトルム・グラーツが3-3でヴェルダー・ブレーメンとPK戦になった時、選手たちとピッチに留まった時がありました。シュトルムは3-4で敗れたのです。
7月18日は大宮サッカー場で日本代表と第1戦を戦い1-1で引き分けています。どちらの得点もDFの選手で、パルチザンが32分、ブディミール・ブヤチッチ(27歳、190/84)、日本が現ヴェルディ監督、柱谷哲二(36分)です。
7月20日三ツ沢での第2戦は1-0。50分に、現レアル・マドリード、スポーティング・ディレクターで、当時期待のストライカーだったプレドラク・ミヤトヴィッチ(22歳、177/73)が決めています。
私はオシムの来日は、1964年の東京五輪以来だとばかり思っていましたが、90年のW杯でユーゴをベスト8に導き、騒乱のユーゴ情勢の中、引き続き代表監督を務める傍ら、パルチザンの監督を兼任していたこの時期、来日を果たしていました。
『イビチャ・オシムの真実』の中でオシムは、「当時、私はパルチザン・ベオグラードの監督でもあったが、惜しくもリーグ優勝をレッドスター譲ってしまったところだった。当時は引き分けの後に必ずPK戦をしていた。それで勝ちが勝ち点1、負ければ0。その結果、勝ち目のないアウトサイダーのチームはPK戦に持ち込むべく、守備一辺倒の試合をしたものだ。」と語っています。
パルチザンはPK戦を7度戦い3勝4敗、リーグ順位は3位でした。このシーズン、サヴィチェヴィッチ、ミハイロヴィッチ、プロシネチキ、パンチェフ、ベロデディチ、ジュキッチ、サバナゾヴィッチなどを擁するライヴァルであるレッドスターはリーグだけでなくチャンピオンズ・カップも制覇しています。
オシムは、W杯イタリア大会でアルゼンチンとのPK戦を控え室で待って以来、ずっとピッチを去るようになりました。たった一度、2001年1月のシーズン中断期間に行われたトルコ・アンタルヤ・カップの決勝で、シュトルム・グラーツが3-3でヴェルダー・ブレーメンとPK戦になった時、選手たちとピッチに留まった時がありました。シュトルムは3-4で敗れたのです。
「どうもサッカーというスポーツは戦勝国より敗戦国、差別国より被差別国の方が相対的に強い傾向があるように思えます。
ヨーロッパでも長年サッカー界をリードしてきたのは戦勝国であるイギリスやフランスやロシアではなく、敗戦国だったドイツとイタリアですし、北中米でも米墨戦争でアメリカに敗れたメキシコのアメリカに対する敵愾心は並々ならぬものがあります。
そしてもうひとつ、サッカーというスポーツにはいわゆる超大国と極めて相性が悪い傾向があるようです。」というsidrikemmerさんの、2004/11/14 22:33(No.762)の投稿に対して。
>いわゆる超大国と極めて相性が悪い傾向
サッカー人口の少ないアメリカ合衆国は論外(FIFAランクは11位ですから、もう無視は出来ませんが)としても、ソ連、中国始め確かに社会主義国家が総力を挙げて取り組んでも、オリンピックと違いワールドカップの優勝を勝ち取る事は出来ませんでした(ユーロはソ連が60年に一度制しています)。
ただ、62年のチリW杯において準決勝で退場したガリンシャが規則通り決勝欠場になっていれば、ひょっとするとソ連の衛星国の中で最も優秀な生徒だったといわれる、チェコスロバキア社会主義共和国の優勝が実現していたかもしれないですね。
共産主義国家の優勝を恐れたFIFAがガリンシャの出場を認めたと云われています。FIFAの役員は、昔も今も貴族や資本家で構成されていますから、実態はどうであれ、農民と労働者の階級しか認めないとする共産主義は彼らの立場からは認められなかったでしょうか。
東欧のサッカーを振り返ると、国家形態は共産主義を標榜する共和国の連邦ではあるものの、サッカーについてはそれぞれの民族独自のサッカースタイルを守っていた事は明らかです。それだけサッカーはそれぞれの地域・民族生活に密着していましたし、何よりも労働者の娯楽の王様(労働者のもう一つのはけ口は、ウォトカに代表されるアルコール)でしたから、イデオロギーでサッカーの仕組みを変えること自体、統治上危険な事として避けたのではないでしょうか。むしろ民族性の違いを超えて、代表チームを編成する事に苦労したと言う方が正しいかもしれません。
ソ連では、ロシア人のモスクワチームとウクライナ人のキエフチーム、グルジア人のトビリシチームの融合に失敗していますし(ロシアの大柄な割に流麗なパスとキエフの閃光のようなスピード、グルジアのタフで粘り強いサッカーの融合は魅力ですが)、ヨーロッパのユーゴの欠点はいつもチームワークと規律でした。セルビア人とクロアチア人の関係の悪さは歴史の示す通りです。中国でも、北京と上海の関係の悪さは、隠し様がない事実です。
単一民族の割合の高い、ハンガリー、ポーランド、東ドイツが比較的成功したのはそうした摩擦が少ないせいかもしれないですね(チェコスロバキアは2大民族の連合でしたが)。単独チームは強いが代表はそうでもないスペインも、カタロニア、バスク、ガリシアやアンダルシアなど民族の自律性の強い自治州が存在します。
こうして見てくると、大国が強くないというよりも、民族の多様性が代表編成のネックになっている、ということのようにも思えて来ます。ブラジルにもリオかサンパウロかという問題は常にありましたが、ではなぜブラジルは強いかというと、それはもうリオにしろサンパウロにしろ、ほかのミナス・ジェラス、リオ・グランデ・ド・スールにしてもどこもかしこも強いから、ということだろうと思います。
あまり意味ないですが、FIFAランク上位20国の平均国力は次の通りです(最下位が205位のグアムですから、中間は103位です)。
国の面積1,441,420㎢(順位11位のアメリカ=3位、1位のブラジル=5位に対し、順位6位のオランダ=131位、13位のデンマーク=130位。20位のイランが平均値)。
人口58,872,065人(順位11位のアメリカ=3位、1位のブラジル=5位に対し、順位19位のウルグアイ=128位、14位のアイルランド=121位。10位のイタリアが平均値)。
GDP1兆4,400億ドル(順位11位のアメリカ=1位、17位の日本=2位に対し、順位19位のウルグアイ=73位、14位のアイルランド=52位。1位のブラジルが平均値)で、平均順位は64位、46位、23位でした。
国の広さはまるで関係なく、人口はまあ多いほうが有利という程度、GDPはかなり相関関係あるが比例関係ではない、という感じでしょうか。
超大国でなくても頂点を目指すチャンスのあるサッカーは、やはり世界一人気の高いのスポーツに相応しいということが逆説的にいえるでしょう。そして、国内で多様な民族を抱えるリーグは、もうそれだけで盛り上がりは保証されているようなものです。
イタリアの歴史を振り返れば都市国家の連合ですし、ドイツも連邦国家です。サッカーの多様な楽しみは、こうしたことからも確認出来る気がします。
ヨーロッパでも長年サッカー界をリードしてきたのは戦勝国であるイギリスやフランスやロシアではなく、敗戦国だったドイツとイタリアですし、北中米でも米墨戦争でアメリカに敗れたメキシコのアメリカに対する敵愾心は並々ならぬものがあります。
そしてもうひとつ、サッカーというスポーツにはいわゆる超大国と極めて相性が悪い傾向があるようです。」というsidrikemmerさんの、2004/11/14 22:33(No.762)の投稿に対して。
>いわゆる超大国と極めて相性が悪い傾向
サッカー人口の少ないアメリカ合衆国は論外(FIFAランクは11位ですから、もう無視は出来ませんが)としても、ソ連、中国始め確かに社会主義国家が総力を挙げて取り組んでも、オリンピックと違いワールドカップの優勝を勝ち取る事は出来ませんでした(ユーロはソ連が60年に一度制しています)。
ただ、62年のチリW杯において準決勝で退場したガリンシャが規則通り決勝欠場になっていれば、ひょっとするとソ連の衛星国の中で最も優秀な生徒だったといわれる、チェコスロバキア社会主義共和国の優勝が実現していたかもしれないですね。
共産主義国家の優勝を恐れたFIFAがガリンシャの出場を認めたと云われています。FIFAの役員は、昔も今も貴族や資本家で構成されていますから、実態はどうであれ、農民と労働者の階級しか認めないとする共産主義は彼らの立場からは認められなかったでしょうか。
東欧のサッカーを振り返ると、国家形態は共産主義を標榜する共和国の連邦ではあるものの、サッカーについてはそれぞれの民族独自のサッカースタイルを守っていた事は明らかです。それだけサッカーはそれぞれの地域・民族生活に密着していましたし、何よりも労働者の娯楽の王様(労働者のもう一つのはけ口は、ウォトカに代表されるアルコール)でしたから、イデオロギーでサッカーの仕組みを変えること自体、統治上危険な事として避けたのではないでしょうか。むしろ民族性の違いを超えて、代表チームを編成する事に苦労したと言う方が正しいかもしれません。
ソ連では、ロシア人のモスクワチームとウクライナ人のキエフチーム、グルジア人のトビリシチームの融合に失敗していますし(ロシアの大柄な割に流麗なパスとキエフの閃光のようなスピード、グルジアのタフで粘り強いサッカーの融合は魅力ですが)、ヨーロッパのユーゴの欠点はいつもチームワークと規律でした。セルビア人とクロアチア人の関係の悪さは歴史の示す通りです。中国でも、北京と上海の関係の悪さは、隠し様がない事実です。
単一民族の割合の高い、ハンガリー、ポーランド、東ドイツが比較的成功したのはそうした摩擦が少ないせいかもしれないですね(チェコスロバキアは2大民族の連合でしたが)。単独チームは強いが代表はそうでもないスペインも、カタロニア、バスク、ガリシアやアンダルシアなど民族の自律性の強い自治州が存在します。
こうして見てくると、大国が強くないというよりも、民族の多様性が代表編成のネックになっている、ということのようにも思えて来ます。ブラジルにもリオかサンパウロかという問題は常にありましたが、ではなぜブラジルは強いかというと、それはもうリオにしろサンパウロにしろ、ほかのミナス・ジェラス、リオ・グランデ・ド・スールにしてもどこもかしこも強いから、ということだろうと思います。
あまり意味ないですが、FIFAランク上位20国の平均国力は次の通りです(最下位が205位のグアムですから、中間は103位です)。
国の面積1,441,420㎢(順位11位のアメリカ=3位、1位のブラジル=5位に対し、順位6位のオランダ=131位、13位のデンマーク=130位。20位のイランが平均値)。
人口58,872,065人(順位11位のアメリカ=3位、1位のブラジル=5位に対し、順位19位のウルグアイ=128位、14位のアイルランド=121位。10位のイタリアが平均値)。
GDP1兆4,400億ドル(順位11位のアメリカ=1位、17位の日本=2位に対し、順位19位のウルグアイ=73位、14位のアイルランド=52位。1位のブラジルが平均値)で、平均順位は64位、46位、23位でした。
国の広さはまるで関係なく、人口はまあ多いほうが有利という程度、GDPはかなり相関関係あるが比例関係ではない、という感じでしょうか。
超大国でなくても頂点を目指すチャンスのあるサッカーは、やはり世界一人気の高いのスポーツに相応しいということが逆説的にいえるでしょう。そして、国内で多様な民族を抱えるリーグは、もうそれだけで盛り上がりは保証されているようなものです。
イタリアの歴史を振り返れば都市国家の連合ですし、ドイツも連邦国家です。サッカーの多様な楽しみは、こうしたことからも確認出来る気がします。


