オールドサッカーフリーク
「オールドサッカーについて語りませんか?(復刻版)」というヤフー掲示板に投稿を始めて6年になる者です。過去の投稿内容を中心に記録したいと思います。
ヘルベルト・ヴィンマー
「選手を引退後はお父さんから受け継いだトト・ロットショップ(サッカーくじ・宝くじ販売店)を経営していましたが、2000年に年金生活者となりました。
その店は姉妹が継いだのですが現在でも週に数回手伝いに行っているそうです。」

「現在の住まいはもちろんアーヘンだそうです。」

「現役時代は「名脇役」であまり脚光を浴びるプレーヤーではなかったですが、現在もその生き方は変わっていないようです。」

「ベッケンバウアーの名脇役、シュヴァルツェンベックも引退後、タバコ店を経営しているそうですが、何か通じるものがありますね。」

「注:ドイツのタバコ店ではサッカーくじを売ってますし、サッカーくじ販売店ではタバコを売っています。」という 2008/10/24 2:06のseppmaier1974さんの投稿に対して。

サイモン・クーパー著『AJAX・THE DUTCH・THE WAR』(邦題『アヤックスの戦争』白水社)によると、60年代のMFでクラブと代表のキャプテンを務めたベルナルドゥス・“ベニー”・ミュラー(1938/8/14アムステルダム生まれ、169/68、341試合30ゴール、代表43試合2得点)に、クーパーがインタビューした時(恐らく2001年)、ミュラーは「シガー・ショップ」を経営していました。

また、同時代のアヤックス最大のスター選手で愛称『ミスター・アヤックス』、シャーク(サーキー)・スワルト(1938/7/3アムステルダム生まれ、アヤックス1956/57〜72/73=463試合175得点、オランダ代表31試合10得点)は、「シガー・ショップを持っていた。店を始める時にはヴィムとフレークが手助けしてくれた」と語っています。

ヴィムとフレークのファン・デル・メイデン兄弟は、戦後アヤックスの財政を支えたメイン・スポンサーでした。兄のフレークは戦争中、小さな家族会社をドイツ軍の仕事を請け負う巨大建設会社へと変貌させました。ドイツ軍のために、兵舎、機関銃座、そしてその名を有名にした海岸線沿いの長大な塹壕を建設したことから、戦後裁判で3年の実刑に処せられ、『塹壕堀』という有り難くない汚名を被りました。

しかし兄弟は戦後も事業を伸張させ、戦犯ということから長らく会員証を与えられることはありませんでしたが、愛するアヤックスのために移籍金を払い、選手に車をプレゼントし、給料と勝利ボーナスを提供し、アヤックスに課せられた罰金全ての面倒をみたのです。『ミスター・アヤックス』への援助は、その象徴だったことは想像に難くありません。

60年代までのオランダ・サッカーはセミプロの時代であり、シガー・ショップは代表的な『本業』だったようです。サイモン・クーパーの解説によると、「疑問に思う人もいるかも知れないが、アムステルダムっ子は葉巻中毒というわけではない。オランダ人は雑貨屋的なものは何でも『シガー・ショップ』と呼ぶ」とあります。

74年のワールドカップで有名になったヤン・ヨンブブルットの『タバコ屋』やゲオルク・シュヴァルツェンベックがミュンヘンで営んでいる店(ギャリー・リネカーは、かつてインタビュー時に、彼の職業をFCバイエルンにも納入する『文房具店』として紹介していました)も、そしてヴィンマーのこのロトショップも、大雑把に言ってしまえばこの『雑貨屋』の範疇なのではないでしょうか。
ハビエル・サネッティ(No.1707)
ハビエル・アデルマール・サネッティ(1973年8月10日生まれ35歳、178cm73kg、アルゼンチン代表121試合5得点)が、2008年9月24日(水)、08/09レガ・カルチョ・セリエA第4節レッチェ戦(1-0でインテルの勝利)で、インテルの選手として公式戦600試合を達成しました。

これは、ジュゼッペ・ベルゴミの758、ジャチント・ファッケッティの634に次ぐ、インテル史上第3位の偉大な記録です。アルゼンチン、ブエノス・アイレス生まれ、22歳でクルブ・アトレーティコ・ベレス・バンフィエルドから移籍したサネッティが、インテルのようなメガ・クラブでこんなに長くプレーし続けているのは驚異的なことです。

4位以下を見ますと、サンドロ・マッツォーラ(565)、5位ジュゼッペ・バレジ(559)、6位マリオ・コルソ(502)、7位ワルター・ゼンガ(473、森本貴幸の所属する、今季好調なカターニャの監督ですね)、8位タルチシオ・ブルーニキ(467)、9位アレッサンドロ・アルトベッリ(466)、10位リッカルド・フェッリ(418)といった錚々たるレジェンドが並んでいます。

サネッティの600試合の内訳は、セリエAが433試合(12得点)、コッパ・イタリア55試合(3得点)、欧州戦112試合(4得点)ですが、モウリーニョ・インテルのキャプテン・はその後も出場を続け現在603試合まで記録を伸ばしていますから、順調にいけば今シーズン中にも2位にランクアップしそうです。また、サネッティのインテル加入13シーズンに対して、1位のベルゴミは20シーズンに亘っての記録ですので、2シーズン後(37歳時)には新記録を達成しているかも知れません。

サネッティはアトランタ・オリンピックのメンバーで、4BKの恐らくRBとして全試合に出場し、銀メダルを獲得しています。北京五輪と逆の結果となったナイジェリアとの決勝戦(2-3)の出場選手は、

GKパブロ・カバジェロ(ウニオン・サンタフェ、エスパニョール、セルタ、レバンテ)
DFロベルト・アジャラ(アルゼンチン代表通算115試合7得点、ナポリ、ミラン、バレンシア、サラゴサ)
DFホセ・アントニオ・チャモ(45/2、ラツィオ、アトレティコ・マドリー、ミラン)
DFネストル・センシーニ(60/0、パルマ、ラツィオ、パルマ、ウディネーゼ)
DFサネッティ(121/5)
MFマティアス・アルメイダ(37/1、ラツィオ、パルマ、インテル、ブレシア)
MFクリスティアン・バセダス(22/0、ベレス・サルスフィエルド、ニューカッスル、テネリフェ)
MFクラウディオ・ロペス(55/10、バレンシア、ラツィオ、アメリカ、ラシン)
MFアリエル・オルテガ(89/17、バレンシア、サンプドリア、パルマ、リバ、フェネルバフチェ)
FWエルナン・クレスポ(64/35、パルマ、ラツィオ、インテル、チェルシー、ミラン、インテル)
FWウーゴ・モラレス(9/2、ラヌス、テネリフェ、インデペンディエンテ、アトレティコ・ナシオナル)
(58分)MFディエゴ・シメオネ(106/11、インテル、ラツィオ、アトレティコ・マドリー、ラシン)

で、カバジェロ以外はその後代表として素晴らしいキャリアを積んだ面々です。
ジジ・リーヴァ
「私には最高の選手はジジリーバです。これだけリーバは最高の選手です。リーバのカリアリの11番は永久欠番です。イタリアサッカー至上最高の人です。彼に一度でも会って話ができればは死んでもよい。 」という2008/ 7/ 4 7:24 [(No.1663)のalbino_gigiriva さんに対する返信。


仰る通り、アッズーリ史上最高のアタッカンテですね。代表42試合35ゴールは、1試合当たりの得点率(0.833)こそランキング3位のシルヴィオ・ピオーラの0.882に譲りますが、今も得点ランクのトップに君臨しています。

カリャーリでセリエAに登場した64/65シーズンから75/76シーズンまでの12年間に、289試合156ゴールをマークし、67(18ゴール)、69(20ゴール)、70(21ゴール)の三度得点王に輝いています。

通算得点の156は、カリャーリという弱小のプロヴィンチャ所属だったことと、度重なる膝の怪我によって、インテルを3連覇に導きながら解任されたロベルト・マンチーニと同じく歴代11位タイ(1位はピオーラの537試合274ゴール)の記録です。

リーヴァは24歳の時、ユーロ68で優勝を飾っていますが、準々決勝から決勝まで出番はなく、ユーゴとの決勝再試合に登場すると、11分に先制点を挙げ、2-0の勝利の立役者になりました(2点目はピエトロ・アナスタージ)。

このチームには、ジャンニ・リヴェラ、ピエリノ・プラーティ、サンドロ・マッツォーラ、アナスタージなどビッグ・クラブのスターが主力でしたが、『サルディニアの太陽』がアッズーリのエースの座に就いた大会となりました。

リーヴァがプロデビューしたACレニャーノはセリエCのチームでしたが、17歳のリーヴァは26試合で8得点を挙げています。レニャーノは現在もセリエC1/Aに所属していて、昨シーズンは7位の成績でした。

PS.現在の『ジジ』と言えば何といってもブッフォンですが、今回のイタリアはオランダに0-3と完敗するなどで、ロベルト・ドナドーニ監督が解任されましたが、結果的には優勝したスペインが唯一勝てなかった(0-0)のがアッズーリ、イタリアはやはり力がありますね。
ジョージを胸に抱く君の名は?(2006/ 1/25 0:15)(No.1065)
サカマガのジョージ・ベスト追悼寄稿「ジョージを胸に抱く君の名は?」は、よかったですね。ジーンと来ました。直ぐに72年3月号のサカマガを見直しましたが、富越正秀氏の写真がきっかけというのが感慨深いものがあります。富越氏の選んだ最初の仕事は、やはりベストだったのですね。

私事ですが、富越氏の大学の先輩で、自分が写真の素晴らしさを富越氏に教えたというアマチュア山岳写真家と知り合いになり、その方が私のことをサッカーファンだと知って、富越氏が世界中から送ってくるサッカーフォトをメールで転送してくれていた時期があります。最初の1枚は、トルシエ・ジャパンが0-5で惨敗したサンドニのフランス戦をスタンドで観戦する松嶋菜々子でした。
ジョージ・ベストオリジナルシューズ(2006/ 1/21 16:15)(No.1063)
1973年4月スタイロ社から、ベストがデザインしたというシューズが発売され、日本に上陸しました。少年用(GBC73)が3,500円、大人用 (GBC79)が4,200円で、これは“プラスチック”製でした。同時発売された牛皮革製のモデルは、6,000円から15,000円でした。当時のプーマの最高峰“キングペレ”、アディダスのトップブランド“ワールドカップ‘74”がともに17,000円でしたから、スタイロ社のシューズは高級モデルだったと思います。

総輸入元はメトロレジャーという会社で、国内販売代理店は、アサヒスポーツ(東京)、イモト(大阪・東京)、佐々木(大阪・東京)、シマダ運道具製作所(大阪)、ナニワ(大阪・東京)、西沢スポーツ(東京)、美津濃(大阪・東京)でした。

『スタイロではトレバー・フランシス(当時18歳、バーミンガム・シティ所属、72/73シーズンリーグ戦31試合出場/6得点)、スティーブ・ハイウェイ (25歳、リヴァプール、38/6)、ケヴィン・キーガン(22歳、リヴァプール、41/13)、ジョージ・ベスト(26歳、マンチェスター・U、 19/4)の4大スター・プロと専属契約、現在スタイロのシューズで活躍中です。』とあります。若い頃は分かりませんが、70年代前半は、甲の紐通しの両サイドが白い三角ラインの、スタイロでした。