オールドサッカーフリーク
「オールドサッカーについて語りませんか?(復刻版)」というヤフー掲示板に投稿を始めて6年になる者です。過去の投稿内容を中心に記録したいと思います。
そしてドイツの勝利(ベルンの奇跡)
その後、87分にプシュカーシュのシュートが決まりますがオフサイド。枠内シュート数において、8対25という圧倒的内容、そして4年1ヶ月に渡って31試合無敗記録を続けてきた無冠の王者に対する惜別の情、或いはドイツ選手の何人かが帰国後黄疸の症状を発したことから、ドーピングの疑いが提起されドイツの勝利は不当だったとする非難が巻き起こったことなどから、正当なこのゴールが認められなかったからマジック・マジャールは勝利を剥奪されたのだという決めつけが、後にグライアン・グランビルらによって提起されました。

しかし、エッケルはいつもウェールズ人のメルビン・グリフィス線審が「すぐに旗を挙げた」と証言しますし、中継のツィンマーマンはプシュカーシュがスライディングシュートする寸前に、まだ線審の動きを見る間もないタイミングで、「コチシュ、センタリング。プシュカシュ、オフサイド。カイン・トア!カイン・トア!カイン・トア!プシュカシュ、オフサイド」と喋っていることからすると、ドイツ贔屓と云われるかも知れませんが、これはやはりノーゴールだったのではないでしょうか。

そして90分にトゥレクが8ヤード(7.32m)の位置から放たれたティボールのシュートを右ポスト際で弾いて、試合は誰も、恐らくはゲップ・ヘルベルガーでさえも確信出来なかったであろう、西ドイツの勝利に終わりました。

ドイツは、恐らくは東側のドイツも同様に、戦後の荒廃からの脱却、そして新国家建設のリスタートを切る気力、そして活力を手に入れたのです。
ラーンの2点目(ベルンの奇跡)
後半立ち上がりの15分は、ハンガリーの時間でした。トゥレクが二度(ティボール、プシュカーシュ)、コールマイヤーが一度(ミハーイ・トート)、そしてクロスバーに一度(ヒデグクーティ)とシュートを阻止されると、ゲームは互角の状況に戻りました。

クロスバーの一撃は、ティボールが全速力で中央突破してバイタルエリアに進入すると、右に左足でパス。それをペナルティエリア左角で受けたフリーのミハーイ・トートが右足で前にトラップ、エリア内に侵入して、コールマイヤーの突進の寸前、腰を落とし加減にした右インステップで高いセンタリングを上げました。

ボールはゴールを横切って、キーパー、トゥレクの及ばない左ポストの外まで飛びます。そこに、マイを振り切って走り込んで来た「黄金の頭」コチシュがバランスを取るため両手を前後に広げながら左足で踏み切ってジャンプ。放物線を描きながら、手を出すことも出来ないトゥレクの頭上を越したボールは、クロスバーの中央、やや左を叩いて大きく左に跳ね返って、コールマイヤーの足元に落ちクリア。ドイツは事なきを得ました。

そして時間は84分、シェファーが左からセンタリング。ラントシュとオットマールが競り、ラントシュがヘディングでDアーク右までクリアしました。そこにいたのが、デア・ボス。小さく飛び上がって前方のモーロックに、ダイレクトパスを出すように右足でインサイドキックの構えを作りますがこれはフェイント。

或いは後年オットマールが証言したように最前線の彼に対してだったのかも知れませんが、もしもオットマールにパスを出していればオフサイドでした。もしかすると、それがラーンにシュートの選択を決断させた要因だったのかも知れません。

インサイドキックの姿勢のまま、デリケートなタッチで足元にトラップし、着地するやいなやキックフェイントを一つかまして、素晴らしい一瞬の加速で左斜め横にボールを運んでシュートコースを作ります。Dエリア内からペナルティエリアに侵入するまでにラントシュをかわして、危険を察知して反応する大柄なローラーントとブザンスキーが迫る直前、大きく軸足を踏み込んで左足を振り抜きました。この間、僅か4歩。両手を力強く左右横に伸ばしてバランスを取ったシュートモーション、ボールは軸足の内側、低く押さえたシュートを打てるポイントに見事に納まっていて、ラーンが天性のシューターであることを示しています。

充分に体重が乗りジャストミートされたボールは、無回転の低いライナーでゴール左隅に飛び込みました。切れの良い腰の入ったシュートは、跳ね返ってゴールエリアに転がり出たほどの威力あるもので、反応の鋭いグロシチが横に飛んだ時には、既にボールはゴール内に達していました。
ドイツの反撃(ベルンの奇跡)
0-2となった2分後の10分、ラーンが右サイドから豪快なドリブルで切れ込んで来ますがバイタルエリア中央付近ではね返されます。大きく跳ねたボールはセンタラインを越えますが、コールマイヤーがジャンピングヘッドでハンガリー陣内に跳ね返します。これを柔らかいダイレクトタッチでヴァルターが落ち着かせて、コールマイヤーにバックパス。

コールマイヤーはサークル左前までドリブルで進むと、プルアウェイの動きで回り込んで左インナーの定位置に移動し、フリーで構えるヴァルターにパス。ヴェルターは素早い判断で、左ウィングの位置まで横切って来たラーンに左足ダイレクトでパス。ラーンは自軍向きにこのグラウンダーのパス受けますが、さり気無い、しかしセンス溢れる右のワンタッチで軽やかに反転し、左足で大きくボールを前方に押し出すと、ゴールから32m付近から助走をつけ思い切り良く得意の右足を振り抜き、シュート。

この速いシュートはゴール方向よりかなり手前に向かい、むしろグラウンダーのクロスとなりました。ボールは、ボジークがインターセプトしようと自軍ゴール向きに思い切り伸ばした足を弾いて、スピードを落として右ポストのやや外側方向に方向を変えました。そこにはフリーのモーロックが詰めていました。ボジークが触っていなければ、モーロックは間に合わなかったでしょう。それでもぎりぎりのタイミングでした。

モーロックはグロシチが触れようとする鼻先で、その170cmの小さな体を精一杯伸ばしてスライディングし、当時語られた表現によれば、「足の親指」でボールを一突きして、ゴールに流し込んだのです。ボールは、実にゆっくりと左隅に転がり込んで行きました。

そして18分、ドイツの左からのコーナーキック。キッカーはヴァルターで、右足のインスイングでした。ローラーントとシェファーが競りますが、2人が邪魔になってグロシチのフェイスティングは、ボールの進行方向を僅かに変えるのが精一杯でした。

そこにいたのは、ラーンでした。体を反らせ気味にして伸ばした右足で、ショートバウンドを巧く捉えた右インサイドのダイレクトシュートは、低く幾分スライスしながらハンガリーゴールに吸い込まれました。右サイドラインからのカラー映像が綺麗に、コーナーキックの軌跡とラーンの卓越したシュートセンスを捉えています。

24分には、ヒデグクーティのダイレクトシュートをトゥレクが弾いたボールがクロスバーを叩き、更に12ヤード(10.97m)の抑えの利いた強シュートもポストの内側に当たりピッチ側に跳ね返りました。この辺りは、74年決勝後半のオランダの、たたみ掛ける攻めを見ているようです。西ドイツのチャンスは一度。シェファーの至近距離からの左アウトフロントの強シュートをグロシチが跳ね返したところを、走り込んだラーンがシュートした場面です。ボールは速い軌跡を描いてポスト左を通り過ぎました。前半は同点のまま終了しました。

西ドイツのドレッシングルーム

以下は映画『ベルンの奇蹟』の場面からです。

オットマールがラーンに対して。「どうしてパスしない。あそこでモーロックがフリーでチャンスだったのに。何してんだよお!」

リープリッヒがコーマイヤーに。「もっと守備に集中しろよ!しょっぱなに2点も立て続けに取られて。どうなってるんだよ!」

「こっちはミスの尻拭いのためにやってるんじゃあないんだ!」と叫ぶラーンに対して、トゥレクが、「そういうお前は何だ。バックパスも出来ないで、偉そうな口を利くんじゃない。」

「ラインをしっかり守って呉れよ」と言ったポジパルに対して、ラーンが「お前一体何見てんだよ。こっちがパス出来ずに走っているっていうのに、フォーメーションどころじゃないぜ!」

ここでヘルベルガーが登場。「今すぐ黙るんだ!貴重なハーフタイムだ、力を温存しろ。お前ら分かっているのか、優勝できるチャンスなんだぞ。なのに怒鳴り合うしか出来んのか!」

「まだ2対2の同点だ。ハンガリーは怒っている。後半、怒涛の攻めで我々を潰しにかかるだろう。だから注意しろ。まだ45分もあって我々にも充分チャンスはある。」

「戦って来るんだ!全員のために戦って、勝利を掴め!」
ティボールの2点目(ベルンの奇跡)
時間は、1点目から2分後の開始後8分のことでした。コチシュのダイヤゴナルなドリブルを、エッケルがDエリアトップ付近でコチシュの後ろから右足を伸ばしてカット。

誰もいない右斜め前にこぼれたボールに対し、急いで戻りながらタッチしたコールマイヤーのトラップはゴール方向に少し大きく逸れてしまいますが、フリーでしたので横か、或いは反転してクリア出来るだけの余裕は有りそうに見えました。しかしコーマイヤーが選択したのは、自分では処理せず、前進して来るトゥレクに任せることでした。

コチシュが左から迫って来たので、早くトゥレクに渡そうと、右アウトで軽く突付いてしまいます。一方トゥレクは、そのままでも自分が一番早くタッチ出来ると読んでいたのでしょう。向かって来るボールの方向に真っ直ぐ前進していました。コールマイヤーのタッチで意表を突かれた形になってしまいます。

が、超人的な反応で、左手一本でボールを止めます。ゴールライン右隅から1m弱出たペナルティエリア内でのことでした。この間、コールマイヤーはコチシュとトゥレクの間に体を入れて、巧妙にコチシュをブロックします。

事なきを得たかに思われましたが、トゥレクは前進からの急停止と左手を突き出したことでバランスを崩し、遠心力の働く前進方向にグルリと仰向けに横転してしまいます。その際、回転中に右手を地面に付き、左手1本でボールを引き寄せ、胸に抱え込もうとしますが、回転方向、即ちゴールから遠ざかる方向に勢い余ってボールを零してしまうのです。

この様子を窺いながら右ペナルティエリア上辺から近付いて来たティボールが、トゥレクの背中、即ち死角から忍び寄り、仰向けになって尻餅をついた体勢から、素早く立ち直ろうとするトゥレクの左前方に零れているボールを、右足で突付き、奪い去ります。

そして6歩進んでゴールライン左サイド上辺に至り、フリーの状態のまま左足インサイドでボールをネットに流し込んで、ゴール。

『TOR! THE STORY OF GERMAN FOOTBALL』によると、「特に相手のプレッシャーも受けていなかったコールマイヤーが、トゥレクに不用意なバックパスを送った」ことが原因だとありますが、最後のワンタッチはバックパスというより、焦りから触ってしまった余計なものでした。

「フリッツ・ヴァルターはハーフウェイライン上に立ち、俯いていた。強国に対し、いとも簡単に2ゴールを与え、どうやって最悪の事態を免れようというのか。」と、リヒテンベルガーは記しています。すると、自分が知っている選手の中で最高のファーターだと後年ヴァルターが評した「モーロックが『さあ、力を見せてやろうぜ!』とチームメイト全員に聞こえるような大声で叫んだ。」彼は、最初のハンガリー戦には出ていない選手です。ヴァルターと違って、僅か8分間では敗北感などには支配されなかったのでしょう。これこそが、ヘルベルガーの深謀遠慮の効果といえるでしょう。

この声を聞いてヴァルターは、1942年5月3日の試合を思い出したのだと言います。その時は敵地で、それも1-3から4点を取り逆転で勝っているのです。
プシュカーシュの先制点(ベルンの奇跡)
ハンガリーのリードは6分でした。ボジークがセンターサークル内から一気にゴール前に通した速い縦パスを、コチシュがタッチする直前、判断良く飛び出したGKトゥレクが足でクリア。そのボールを保持したリープリッヒが、ルックアップしワンドリブルして左前方にフィードしようとキック。しかし、これはコース選択が甘く、一番近くにいたボジークにカットされてしまいます。

ボジークは、間髪を置かず右バイタルエリアでノーマークのティボールに、半身のまま右アウトサイドで鮮やかなスルーパス。ティボールはノータッチのまま反転しDアーク右渕内側に侵入し、小さく右足でワンタッチしてシュートモーションに入り、丁度ペナルティ線上から右足強シュート。

間合いを詰めるも2mほどの距離を残し、後ろを向いてブロックしたエッケルの腿辺りに当たってディフレクトしたボールはスピードを失い、ゴールに向かう回転を伴った不規則バウンドを2回して、4分の1の弧を描くようにペナルティエリア内をゆっくりと、やや左前方に流れます。

そこにはリープリッヒがマークすべきプシュカーシュがフリーで佇んでいました。「ギャロッピング・メージャー」は素早い反応で5歩助走し、スリーバウンド目のボールをダイレクトで正確に捉え、得意の左足を振り抜きました。美しいフォームのインステップから放たれた低く押さえられたシュートは、飛び出すトゥレクの右側の足元を痛烈に抜いて、ネット右隅に突き刺さりました。

ゴールライン付近で、コブシを握り締めた両手を真っすぐに天に突き上げて、味方に向かってどうだと言わんばかりに胸を張り、歓喜のポーズを取るプシュカーシュ。リープリッヒはティボールの後方から帰陣し、最後はプシュカーシュにタックルを仕掛けますが、ショートカウンターの形を与えてしまい間に合いませんでした。
ハンガリー決勝戦への道程(ベルンの奇跡)
ドイツの用意周到さと幸運、その大半は奇跡の逆転劇を演じた決勝戦の後に、識者たちがその勝因を探る中から生まれたエピソードであったにせよ、それに比べ、ハンガリーの決勝に至る過程は、歴史に残る彼らの偉業を極限にまで高めようとするかのように、また最もきつい試練の道をわざわざ選んだ如く、不運で困難なものでした。

ノックアウトラウンドの緒戦は、優勝候補の一角で、ホスト国だった前回大会を悲劇的な敗北を喫し、チームユニを白からカナリヤ色に一新し、捲土重来を期すブラジルでした。試合は世界最高の技量を誇る両雄の対決にも関わらず、負傷のプシュカーシュを欠いたマイティ・マジャールの代理キャプテン、ボジークが、セレソンのLBで、エンサイクロペディアと称されたニウトン・レイス・ドス・サントス(29歳、1925-、181/79、ボタフォゴ、代表通算85/3)と喧嘩を始め、71分に両者退場、79分にもコチシュを踏みつけたウンベルト・バルボーサ・トッジ(20歳、1934-80、174/70、パルメイラス、7/1)が退場するといった荒れた試合になり、試合後も興奮冷めやらない数人のブラジル人選手がハンガリーの更衣室にまで押しかけ、電球やボトルが割れたばかりか、ついにはけが人の治療の為に医者が呼ばれる事態にまで発展し、「ベルンの戦闘」と呼ばれました。

ハンガリー(3-2-3-2)
GKグロシチ、RBブザンスキー、CHローラーント、LBラントシュ、RHボジーク、LHザカリアーシュ、ORヨージェフ・トート(25歳、1929-、73/75、チェペル、12/5)、IRコチシュ、CFヒデグクーティ、ILティボール、OLミハーイ・トート

ブラジル(4-2-4)
GK 1カルロス・ジョゼ・デ・カスティーリョ(26歳、1927-87、フルミネンセ、25/0)
RB 2ジャウマ・ドス・サントス(25歳、1929-、172/73、ポルトゲーザ、98/3)
CH 5ジョアン・カルロス・バチスタ・ピニェイロ(22歳、1932-、179/76、フルミネンセ、17/1)
LB 3ニウトン・サントス
RH 4アンテノル・ルーカス・“ブランダンジーニョ”(29歳、1925-2000、177/78、ポルトゲーザ、18/0)
LH 6ジョゼ・カルロス・バウアー(28歳、1925-、189/76、サンパウロ、29/0)
OR 17マウロ・ラファエウ・”マウリーニョ“(21歳、1933-95、サンパウロ、12/4)
IR 7ジュリオ・ボテーリョ・”ジュリーニョ“(241929-2003、180/77、ポルトゲーザ、31/7)
CF 9オスワルド・ダ・シウヴァ・”バウタザール“(28歳、1926-97、174/75、コリンチャンス、4/3)
IL 8ワウディール・ペレイラ・”ジジ“(25歳、1928-2001、フルミネンセ、168/20)
OL 18ウンベルト
監督 アルフレード・”ゼゼ“・モレイラ・ジュニオール(36歳、1917-98)

悪戦苦闘の末、ブラジルを4-2と下して進出した準決勝で待っていたのは、前回王者ウルグアイ。引き続き欠場したプシュカーシュと、素晴らしい統率力と卓越した攻撃力を持ったウルグアイのCHで、キャプテンのオブドゥリオ・バレラを欠いたこの一戦は、しかし一転してフェアでテクニカルな第一級の試合になり、ハンガリーは延長の末『ゴールデンヘッド』コチシュの二つのヘディングで4-2と、ウルグアイにW杯史上初めて土をつけましたが、隣国オーストリーを6-1で降して優々と勝ち上がった西ドイツに比べ、明らかに疲労に差がありました。

ハンガリー
GKグロシチ、RBブザンスキー、CHローラーント、LBラントシュ、RHボジーク、LHザカリアーシュ、ORラースロー・ブダイ(25歳、1928-83、172/74、ホンヴェード、39/10)、IRコチシュ、CFエーテル・パロタシュ(25歳、1929-67、176/75、ヴェレシュ・ロボゴー、24/18)、ILヒデグクーティ、OLティボール

ウルグアイ
GK 1ガストン・ロケ・マスポリ(36歳、1917-2004、189/85、ペニャロール、40/0)
RB 2ホセ・エミリオ・サンタマリア・イグレシアス(24歳、1929-、78/68、ナシオナル、ウルグアイ20/0、スペイン16/0)・・・59年からレアル・マドリードでプシュカーシュの同僚となります。
CH 3ウィリアム・マルティネス(26歳、1928-91、192/91、ペニャロール、54/2)
LB 16ネストル・カルバーリョ(25歳、1929-81、176/70、ナシオナル、18/0)
RH 17ルイス・アルベルト・クルス(29歳、1925-98、173/73、ナシオナル、11/0)
LH 4ビクトル・カルロス・ロドリゲス・アンドラーデ(27歳、1927-85、169/62、ペニャロール、42/0)
OR 18ラファエル・サウト・カストロ(24歳、1929-、168/65、ナシオナル)
IR 8ファン・エドゥアルド・オーベルグ(26歳、1927-92、178/73、ペニャロール)
CF 19ハビエル・“ネネ”・アンブロイス(22歳、1932-75、169/67、ナシオナル、31/16)
IL 10ファン・アルベルト・スキアフィーノ(28歳、1925-2002、175/69、ウルグアイ21/10、イタリア4/0、ボカ・ジュニオルス)・・・後にミランで活躍
OR 11カルロス・ルイス・ボルヘス(22歳、1932-、166/68、ペニャロール、35/10)
監督 イバン・ロペス
ベルンの奇跡
ドイツは伝統の白いシャツ、黒のパンツとストッキング。
フォーメーションはWM(3-2-2-3)
GK 1アントン・”トニー“・トゥレク(35歳、1919-84、181/80、デュッセルドルフ、代表通算20/0)
RB 7ヨジップ・”ユップ“・ポジパル(27歳、1927-97、176/76、ハンブルク、32/1)
LB 3ヴェルナー・コールマイヤー(30歳、1924-74、174/76、1FCK、22/0)
RH 6ホルスト・エッケル(22歳、1932-、180/65、1FCK、32/0)
CH 10ヴェルナー・リープリッヒ(27歳、1927-95、176/75、1FCK、16/0)
LH 8カール・“チャーリー”・マイ(25歳、1928-93、172/71、ヒュルト、21/1)
RW 12ヘルムート・“デア・ボス”・ラーン(24歳、1929-2003、178/76、エッセン、40/21)
IR 13マキシミリアン・“マックス”・モーロック(29歳、1925-94、170/71、ニュルンベルク、26/21)
CF 15オットマール・ヴァルター(30歳、1924-、177/77、1FCK、20/10)
IL 16フリードリッヒ・”フリッツ“・ヴァルター(33歳、1920-2002、174/71、1FCK、61/33)
OL 20ハンス・シェファー(26歳、1927-、174/71、ケルン、39/15)
監督 ヨゼフ・“ゼップ”・ヘルベルガー(57歳、1897-1977)

ハンガリーもお馴染みの国旗を模した小豆色のシャツ、白ショーツ、緑のストッキング。
以下は、映画『ベルンの奇跡(2003年ドイツ)』で示されていたポジションです。
GK 1ギュラ・グロシチ(28歳、1926-、180/78、ホンヴェード、86/0)
RB 2ヤノシュ・ブザンスキー(29歳、1925-、175/76、ドロギ、48/0)
LB 4ミハーイ・ラントシュ(25歳、1928-89、177/78、ヴェレシュ・ロボゴー、52/4)
RH 5ヨージェフ・ボジーク(28歳、1925-78、173/73、ホンヴェード、101/11)
CH 3ギュラ・ローラント(31歳、1923-81、181/78、ホンヴェード、37/0)
LH 6ヨージェフ・ザカリカーシュ(30歳、1924-71、172/70、ヴェレシュ・ロボゴー、35/0)
OR 11ゾルターン・ティボール(24歳、1929-97、169/68、ホンヴェード、43/17)
IR 8シャーンドル・コチシュ(24歳、1929-79、177/73、ホンヴェード、69/75)
CF 9ナーンドル・ヒデグクーティ(32歳、1922-2002、179/74、ヴェレシュ・ロボゴー、69/39)
IL 10フェレンツ・プシュカーシュ(27歳、1927-2006、172/75、ホンヴェード、85/84)
OL 20ミハーイ・トート(27歳、1926-、165/68ウイペシュティ、16/1)
監督 グスターヴ・シェベシュ(48歳、1909-86)

有名な「ハンガリアンM」の並びではなく、WMフォーメーションになっています。MMであれば、

2-3-4
5-6
11-9-20
8-10

という並びでしょう。実際には4-2-4のようだったという説もあります。
この場合、

2-3-6-4
5-9
11-8-10-20

だったでしょうか。

当時の映像には、バックスからのスルーをセンターサークル手前で受けて、ドリブルで持ち上がる、「引き気味の9番」ヒデグクーティのプレーが見えます。74年のクライフの時でさえ新鮮でしたから、この頃のCFとしては異例中の異例のポジショニングだったことでしょう。

映画『ベルンの奇跡』の場面から。ヘルベルガーが、トゥーン湖畔の村、シュビーツの美しい景観の合宿地(王者ウルグアイも同じ場所)にあるホテルの一室で作戦を授けています。「最初のハンガリー戦では8対3と惨めな負け方を経験した。」座っているラーンの肩に手を置きながら「苦しかったな。」移動しながら「だが知っての通り、物事全てには良い面と悪い面があるし、またその逆もある。では8点から何を学んだか。」

「ハンガリーは4年間無敗の最強チームだ。ローラント、コチシュ、ボジーク、プスカシュ。この4人以外は負けを知らない選手ばかりの代表チームだ。」

「かと言って勝てないというわけではないぞ。何故なら我々も3点取っているからだ。」黒板を指差しながら「つまり彼らにも弱点がある。この左サイド、ボジークが攻撃に出ると後ろにポッカリと穴が開く。そこを有効に使うんだ。ハンス(・シェファー)、その役目は、特にお前に任せる。」

「プスカシュは怪我が治って出てくると思う。まだ完全には回復していないだろうが、我々を潰しにかかってくるに違いない。リープリッヒがピッタリ付け。」「勝つためには相手の弱点を確実に突いてチャンスを作っていかなければならないが、それはプスカシュではない。」

チョークで黒板に丸を描きながら「ヒデクチだ。彼は普段センターフォワードだが、中盤を仕切れる選手だ。もしも彼がゲームを動かそうと下がれば、ホルスト(・エッケル)がマークしろ。ベッタリ張り付いて、決して離れるな。」指差しながら、「夢にお前が出てくる位しつこくな。」

ヘルベルガーは中央に来て、両手で机を鷲掴みにしながら言いました。「戦術的に有利なのは、相手の強さを知る我々の方だ。しかも彼らは我々の真の強さを知らない。」机に両肘をつき、顔を前に突き出しながら、「こっちが彼らを倒すほど強いってことを、な。」

ドイツ帝国時代の1932年から監督を続けるヘルベルガーは、1953年11月25日のウェンブリーの会場にいました。そして、その試合の8ミリを二度に亘って選手たちに見せています。最初のスクリーンを見た時、選手たちは畏怖の念を抱きました。しかし二度目には、ハンガリーの欠点が目につくようになりました。倒せないチームなど存在しない、ヘルベルガーには信念がありました。

フリッツ・ヴァルターは戦争中南欧でマラリアに罹患して以来、暑く晴れた日の試合では全く精彩を欠いていました。彼は雨を愛し、見違えるように生き生きとプレーすることから、ドイツでは今でも土砂降りの雨が続く天気のことを「フリッツ・ヴァルターの天気」と呼びます。決勝は雨でした。

そして、常に代表チームに帯同しているアディ・ダスラーが、新しくポイント交換式のスパイクを開発し、各選手に2セットずつ持ち込んでいました。ダスラーは、「フリッツ・ヴァルターの天気」用に、長めのスタッドを装着しました。

グループリーグの対戦では、トルコとのプレーオフに勝てば準々決勝侵出出来ると計算し、ハンガリー戦には多くのレギュラーを温存して臨みました。試合は3-8の大敗でした。すべてが終わった後で、ヘルバルガーの恐るべき深謀遠慮だと評されましたが、この用兵は実際には、ハンガリーには負ける事を前提に、若い正代表が自信を失わないよう温存したというのが真相に近いのではないでしょうか。コールマイヤーとポジパルのディフェンス陣については、これほどの攻撃力を持ったチームは地球上にはないから肌で感じておけ、という逆の理由で使ったのでしょう。もっともコールマイヤーはショックのためでしょうか、次のトルコ戦を欠場しています(代わりはバイエルンのハンス・バウアー(26歳、1927-、172/73、5/0))。

第1戦のトルコ戦に出て、ハンガリー戦から外れた選手は、

GKトニー・トゥレク
RBフリードリッヒ・”フリッツ”・ラバント(28歳、1925-82、80/76、ハンブルク、4/0)
LHカール・マイ
RWベルンハルト・”ベルニ“・クロート(27歳、1926-96、72/66、シャルケ、19/3)
RIマックス・モーロック
CFオットマール・ヴァルター
LWハンス・シェファー

の7名です。

そして彼らは、プレーオフのトルコ戦に揃って出場して、オットマール、シェファー2点、モーロック3点と期待通り、7-2勝利の立役者になるのです。

ピッチ上の監督、そしてヘルベルガーのチームの根幹であるフリッツ・ヴァルター、そして今で云う不動のボランチ、ホルスト・エッケルが全試合を通して出場した一方、ハンガリー戦を契機にポジションを掴んだ選手が2人います。ヘルムート・“ザ・ボス”・ラーンとプシュカーシュをマークしたヴェルナー・リープリッヒです。彼らは大会前には、ベルニ・クロートとカール・マイの控えでした。

ラーンはキャプテンのフリッツ・ヴァルターと合宿所で同室でした。繊細で責任感の強い33歳のキャプテンは、その卓越した技量の割に気分の浮き沈みが激しく、耐えがたいほどの自信喪失に苦しんでいました。審判の不利な判定、批判的な言葉、そして何よりも晴れた空、ヴァルターはちょっとした事でうろたえました。

この西ドイツ最高の選手には、精神的な支えが必要でした。そして1940年からヴァルターに惚れ込み、そのことを誰よりも熟知していたヘルベルガーは、明るく騒々しい、ユーモアに溢れ明日は明日の風が吹くといった、羽目を外す事に一向に痛痒を感じない南米気質の楽天家、24歳のデア・ボスを処方したのです。合宿中ヘルベルガーは、多くの人が驚くほど、ラーンの悪ふざけを許容しました。

知将のマネジメント力は、ドイツチームの魂であり、原動力である主将のコンディション維持に見事に成功しましたが、それと同時に、いや、むしろそれ以上にドイツにとって幸せだったことには、決勝戦最大のヒーローとなるラーンの起用を、彼と万全の信頼関係にあるヴァルターが、好不調の波が激しいことから躊躇していた指揮官に踏み切らせたのです。ピッチ上の監督であるヴァルターの進言で、ラーンは大事なユーゴスラヴィア戦の先発に名を連ね、そして、ハンガリー戦に続く2得点目のゴールを決めて見せました。

一方マイのLH復帰後控えに戻っていた、プシュカーシュのマーカーだったリープリッヒは、勝負の帰趨が決した試合終盤に手酷い負傷を負わせたことで、一部から彼のプシュカーシュに対するファールは不当だとの批判を受けたものの、ユーゴ戦でチーム最高のゴールゲッター、ILスチェパン・ボベック(55試合33得点)のマークに成功しCHのレギュラーを掴みました。押し出された形のユップ・ポジパルは、オーストリー戦で新たにRBのポジションを勝ち取り、結局当初RBのレギュラーだったフリッツ・ラバントが控えに回ることになりました。
美しく散ったアーセナル
来季のガナーズがどんなスカッドになるか分からないので、惜別の言葉を残したいと思います。

マンU戦は負けましたが、ゲーム自体はハイレヴェルで、エンターテインメント性の高い好試合だったと思います。ガナーズのプレースタイルは流れるような速いパスワークと、フィニッシュの美しさ、スペクタクル性にあると思うのですが、同時に相手の良さも引き出してしまう所があるように感じます。

折角ゴールを奪っても、直ぐに相手もファインゴールを入れ返すという繰り返しがここ何試合も続きました。74年のW杯決勝前半、オランダのトータルフットボールに徹底したマンツーマンで対抗しようとした西ドイツが、知らず知らずの間に自分たちもトータルフットボールを演じることになり、それが逆転を引き出した、「何で俺たち勝てたんだろう」とフォクツは首を傾げた、そんな説を鈴木良平氏と西部謙司氏が『フットボールオデッセイ』という本に著していますが、何か今季のガナーズはそれだったなあという気がします。

勿論、ミランがクラブW杯にピークを持っていったのが原因で、今年に入ってからの過密スケジュールの影響をまともに受け、フィジカルコンディションが低下して全く勝てなくなったと、ピルロがワサダイで語っていたように、選手層がマンU、チェルシー、レッズよりも薄いガナーズが、やはり終盤に来て怪我と蓄積疲労でチーム全体のポテンシャルが上がらなかったということが主要因ではあるでしょうが・・・・。

粕谷秀樹氏がCLハイライトで語った通り、CL2足レッズの4点目、ユニフォームを掴むもカイトに振り切られたのがセスクだったというのが、今季のガナーズを象徴するシーンだったように思います。

願わくは来季も、セスク、フラミニ、アデバが残留し(セスクが今より決定力を付けて)、今の様なスペクタクルな内容でしかも勝つチームになって、是非CL制覇を成し遂げて欲しいものです。
UEFAカップバイエルン対ヘタフェ
ファンタスティック!やってくれました。

準々決勝2ndレグ3-3、トータル4-4、アウェイゴール差でバイエルンが勝ち上がりました。

久々の興奮を味あわさせて頂きました。89分の同点ゴール。延長120分の同点=決勝ゴール!!
素晴らしい。放送ないんですかねえ。是非見たいものです。

ヘタフェ

スペイン国内で、その健闘振りが感動を呼んでいるようですね。

ヒッツフェルトがヘタフェを讃えて、「国王杯の決勝(ヘタフェ対バレンシア)で、バイエルンはヘタフェのファンになるだろう」と語ったそうです。

第1戦
トニの先制点
http://www.youtube.com/watch?v=moxAPSxDTAI&feature=related
コントラの同点ゴール
http://www.youtube.com/watch?v=mAZSmiCKHz8&feature=related
第2戦
http://www.youtube.com/watch?v=aC3pNKAoLPk&NR=1
ヘルベルト・ツィンマーマン
ウルリッヒ・ヘッセ・リヒテンベルガー著『TOR! THE STORY OF GERMAN FOOTBALL』、邦題『ブンデスリーガ−ドイツサッカーの軌跡(秋吉香代子訳)』によると、1954年7月4日W杯スイス大会決勝、西ドイツ対ハンガリー戦の模様は、ヘルベルト・ツィンマーマンによって西ドイツの何十万という世帯に実況中継されました。

ツィンマーマン(1916-66)はアーヘン近郊で生まれ、スイス大会当時はハンブルク在住でした。西ドイツからは4人のアナウンサーが派遣され、順番に中継を担当しました。ツィンマーマンは最初にグループリーグのハンガリー戦を実況しましたが、その時次に彼が中継するのは決勝だと、そこまでドイツ代表の実力を買っている者は誰もいませんでした。

ツィンマーマンは決勝前夜、大半の時間を友人や同僚のルディ・ムヒェルと過ごし、生中世のコメントの準備をしました。「ツィンマーマンは、3対8で負けた試合のショックをまだ引きずっていた」と、ミヒェルは後に語りました。「決勝に進出しただけでも喜ぶべきだということを聴取者に伝えれば良い、と私は提案した。」

「素晴らしい一日です」と、ツィンマーマンは慎重に中継を始めました。「成功のうちに終わるなどと、思い上がらないようにしましょう。」西ドイツの最初のゴールが決まった時は、ため息をついて「やれ、ありがたい!もはや0対2ではありません」と、まるで彼が望むものは勝利などではなく、善戦すれば十分であるかのように述べました。

しかし、ツィンマーマンは徐々に試合の魔法にかかり始め、前半25分過ぎ、トニー・トゥレクがナーンドル・ヒデグクーティのヴォレーシュートをパンチングで防いだ時は、躊躇いながらも「トニー、君はサッカーの神様だ!」と叫びました。

作家フリードリッヒ・クリスチャン・デリウスは「だんだん、彼の口にする言葉はサッカーとは直接関係のないものになっていった。『奇跡だ!』『ああ、よかった!』私はアナウンサーが。“信じる”という言葉を牧師よりも熱心に使うのに驚かされた。」

84分、ツィンマーマンはついには声を抑えることが出来なくなり、サッカー中継となると狂ったようになる南米のアナウンサーのようになっていました。

「Rahn schiesst! Tor! Tor! Tor! Tor!(ラーンがシュート!ゴール!ゴール!ゴール!ゴール!)」

そして8秒間の沈黙の後、ツィンマーマンは息を継ぎ、自分の目を確かめました。そして、
「Tor für Deutshland!(ドイツのゴールです!)」

そして、あの有名な一節が続きます。

「Drei zu zwei führt Deutschland.Halten Sie mich für verrückt halten Sie mich für übergeschnappt!(ドイツが3対2でリードしています。狂ったのかと言ってくれ、気は確かかと言ってくれ!)」

この中継は後にレコード化され、驚くほどの枚数が売れました。まるで不可能が実際に起こったことの証拠を、人々が何度も何度も必要としているかのようでした。ツィンマーマンは、ベルンで戦ったドイツ代表と同じ様にこの日曜日に国民の英雄になったのです。

彼の中継がドイツ人に与えた衝撃は計り知れないものでした。1954年当時、テレビは大変な贅沢品で、従ってツィンマーマンの甲高い金きり声は試合を伝える唯一の手段でした。デリウスはその自伝的小説の中で、宗教に熱心な家庭に閉じ込められたある病弱でまじめな少年が中継を耳にし、突然開放感がこみ上げてくるのを感じた様子を「私は幸福だった。それは私に吃音も乾癬も鼻血も忘れさせた。自制心から神の呪縛からも解放された。これほど軽く感じたことはそれまでになかった」と記しました。

デリウスは個人の境遇を戦後の西ドイツが置かれた状況の隠喩に使ったのだとリヒテンベルガーは言います。「罪の意識にさいなまれ、抑制されていた国が突然再生し、ワールドカップを、開放感をもたらす天の恵みと感じた。『Wir sjnd wieder wer(我々は再び何者かになれた)』とは、『Das Wunder von Bern(ベルンの奇跡)』に対する反応を総括するのによく使われるキャッチフレーズだ。その影響は決して過小評価できるものではない。」

誕生したばかりの西ドイツは、第一次世界大戦後誕生したワイマール共和国と区別するため、ボン共和国という異名がありました。しかしゼップ・ヘルベルガーの伝記作家の一人、ミコス・ナットは「ベルンでのワールドカップ優勝で、連邦共和国が真に建国されたと考えた人はかなりの数に上った。ベルン共和国だ」と指摘しました。

ツィンマーマンの実況は、疑念、控えめである必然性、アイデンティティの欠如といった戦後ドイツが陥ったどんより曇った陰鬱で不安な心の、感情の突然の爆発を介して、大きな象徴、即ち国への帰属を再び誇らしく思う、生き生きとした希望、活力への変貌そのものでした。そして、その変化の過程は、爽快なほどに非ドイツ的でした。

ツィンマーマンはついに衝動を抑えきれず、暴走しました。「Aus! Aus! Aus! Aus! Das Spiel ist aus!(終わった!終わった!終わった!終わった!試合終了!)」

ベルンの11人は永遠のヒーローとなりました。2003年10月16日封切し、その年の8月14日亡くなったヘルムート・ラーンに捧げられた、ゼーンケ・ヴォルトマン監督の『ベルンの奇跡』は、総制作費700万ドル、ドイツで360万人を動員し26億円の興行収入を記録しました。この映画のDVDはW杯の実写カラー映像が特典としてついており、ヴァルター兄弟、ラーン、モーロック、シェファー、トゥレク、プシュカーシュ、ヒデグクーティ、ティボールが躍動しています。

ブラジル1-1ユーゴの映像もあって、ブランコ・ゼベッツのヘディングシュートとジジのミドルシュートが見られます。映画も上質で、主役のマティアス・ルバンスキ少年(ルーイ・クラムロート)が泣かせてくれます。ラーン役のサーシャ・ゲーベルは、ラーンよりもダンカン・エドワーズか、俳優のブレンダン・フレイザーに似ていると思いました。


ツィンマーマンは、62年、66年のW杯の中継も担当しますが、66年の決勝戦から5ヵ月後の12月11日、自動車事故を起こし5日後亡くなりました。享年49歳。