オールドサッカーフリーク
「オールドサッカーについて語りませんか?(復刻版)」というヤフー掲示板に投稿を始めて6年になる者です。過去の投稿内容を中心に記録したいと思います。
オリンピックとラグビー
ラグビーのロンドン五輪は、英国代表としてコーンウォール州選抜と、南洋州(オーストララシア)代表としてワラビーズ(当時は、豪州ニュー・サウス・ウェールズ州選抜)の2チームが出場し、ワラビーズが32-3で金メダルを獲得しました。ラグビーはこの後1920アントワープと1924パリに競技として参加しています。

アントワープ大会は、イングランド、チェコスロヴァキア、ルーマニアが棄権したため、アメリカとフランスの2カ国の参加となり、アメリカが優勝しました。パリ大会は20年の2カ国に加えルーマニアが参加し、やはりアメリカがルーマニアを61-3で下したフランスを、17-3で破って優勝しています。しかし参加チームの揃わないラグビーは、これ以降オリンピックとは無縁の競技となっています。

一方、オリンピックのサッカー競技は参加チームが増えて行きました。

1908年6チーム
1912年11チーム
1916年(中止)
1920年14チーム
1924年22チーム(イングランドは不参加)
1928年17チーム(イングランドは不参加)
1932年(サッカー競技なし)
1936年16チーム
1940年(中止)
1944年(中止)
1948年18チーム
1952年25チーム
1956年11チーム
1960年16チーム
1964年14チーム(イングランド不参加)

この違いは、サッカーが大衆化したのに対し、ラグビーは特権階級のゲームに留まっていたことが原因で、帝国主義時代を迎えた欧州大陸にマッチしたのがサッカーだったといえるでしょう。帝国主義は国内的には富国強兵策を推進しましたから、鉱工業化と都市化の進展による人口集積の結果、彼らの余暇に充てるレクリエーションとして、そして軍隊の軍事教程の一環としてサッカーは急速に発展しました。
オリンピックとサッカー
1894年ピエール・クーベルタン男爵(1863-1937)が提唱し、1896年アテネ大会から始まった近代オリンピック、1900年パリ大会の公開競技としてサッカーとラグビーが実施されました。この頃のオリンピックは、個人が直接開催委員会に出場を申し込む形式で、サッカーは経緯ははっきりしませんが、イングランドからアプトン・パークFC、ベルギーからブリュッセル大学が出場しました。

10月20日500名の観衆の前で、地元フランスのクラブ・フランセーズとアプトン・パークが対戦し(4-0)、敗者のフランセーズが10/23にブリュッセルと対戦し6-2で勝ったことで(観衆愁1500人)、2試合のみで順位が決定しています。

この試合を見た、オランダ・サッカー協会の事務局長カール・アントン・ウィレム・ヒルシュマンは、アマチュアしか参加できないオリンピックとは別に、プロを含む真の世界王者を決めたいと考えました。直ぐにFAのロード・キネード会長に提案しますが反応はありませんでした。それでもヒルシュマンは怯むことなく、今度はフランス体育スポーツ協会連合(USFSA)のフットボール委員会幹事ロベール・ゲラン(1876-1952)に相談を持ちかけます。

『ル・マタン』紙の記者でもあったジャーナリストのゲランは、同じフランス人のクーベルタンの事業(オリンピック)に大いに刺激を受けていた一人だったので、ヒルシュマンの提案に賛同し、大会を開催する前に団体を作るという策を提案しました。そして9月1日、ヒルシュマンの提案により、フランス、ベルギー、デンマーク、オランダ、スペイン、スウェーデン、スイス、そして電信で加盟を表明したドイツを加えた8カ国で、FIFAは結成されました。

しかし英国4協会は、国際組織の意義に懐疑的で、設立当初参加していません。しかし、副会長に就任したヒルシュマンは継続的にFAに働き掛け、1906年にランカシャー・サッカー協会会長で、FAの理事でもあったブラックバーン出身のダニエル・バーリー・ウールフォール(1852-1918)の賛同を取り付け、そのウールフォールがFAを説得し、イングランドはFIFAに加盟しました。

これを喜んだ会長のゲランは、直ぐにウールフォールに会長の座を譲っています。第2代会長となったウールフォールは、英国と欧州大陸のルールの統一、そして1908年と1912年の五輪正式種目となるよう尽力しました。

こうして実現した英国のオリンピック出場でしたが、FIFAに加盟していないスコットランド、ウェールズ、アイルランドの協力を得ることは出来ず、英国チームはFAが選出したイングランド・アマチュア選抜チームとなりました。
英国サッカーの発展と欧州大陸
1863年11クラブでスタートしたFAの加盟クラブは、1905年に1万を超え、1910年の登録アマチュア選手は30万人に及びました。ウェンブリ・スタジアムが完成した1923年のFAカップ決勝戦には24万人が詰め掛けるという空前の事態に達しました(公式記録は126、047名で、白馬ビリーに騎乗した警官ジョージ・スコーレーがパニックを未然に防いだ事から「ザ・ホワイトホース・ファイナル」と呼ばれます)。5代会長サー・ジョン・チャールズ・クレッグ(1850-1937)はフットボール界のナポレオンと呼ばれ、国王ジョージ5世からナイトの称号を叙勲されました。

フットボール・リーグも隆盛を続け、1892年に2部、1894年にはサザン・リーグを傘下に加え32チームに成長し、1890年にはアイルランド・リーグ、1891年にはスコットランド・リーグと、プロリーグが誕生し、競技レヴェルの向上とともに人気は英国の庶民の間に定着しました。スコットランドとイングランドの国際試合も、特にハンプデン・パークでは常に10万人を超える大観衆を集め、完全にシーズンの最後を飾る大会として定着して行きました。

欧州大陸での国際試合は早く、ドイツのカールスルーエが1888年にベルギーのリエージュを7-0で下した記録が残されています。一方、ハングルクは1897年と1998年にコペンハーゲンに2度とも敗れています。デンマークは1908年ロンドン五輪でフランスを17-1で破った当時、欧州大陸一の強国でした。サッカー協会の設立は、そのデンマークとオランダが最も早く1889年設立、スイスが1895年、イタリア1898年、ドイツ1900年、ハンガリー、チェコ1901年、ノルウェー1902年、オーストリー、スウェーデン1904年、ベルギー、ロシア1912年、フランス1919年でした。因みに南米は、アルゼンチン1893年、チリ1895年、ウルグアイ1900年、パラグアイ1906年、ブラジル1914年です。

各国はイングランドとの試合を希望していましたが、イングランドの実力は圧倒的で、1899年オックスフォード大学は、イングランド選手を含むオーストリーのファースト・ウィーンを15-0、13-0で破っていますし、1906年コリンシアンズはフランス選抜を15-0で下しています。イングランド代表がホーム・インター以外のナショナルチームと対戦するような状況にはありませんでした(記録ははっきりしませんが、FAは1899年11月に、初めて公式な海外遠征としてドイツにチームを派遣しています。1901年9月にはドイツのチームが英国への最初の遠征を実施された文書が残されています)。

初めてイングランド代表が大陸の代表と戦ったのは、1908年6月のことで、6日、8日のウィーンでのオーストリー戦は6-1、11-1、10日ブダペストでのハンガリー戦は7-0、13日プラハでのボヘミア(チェコ)戦は4-0でした。翌年再びハンガリー(2試合)、オーストリーと対戦し、4-2(5/21)、8-2(5/31)、8-1(6/1)とすると、1921年まで対戦することを止めています。
スコットランド選手とプロ問題
ランカシャーのプレストンで、1862年にクリケット・クラブとして誕生したプレストン・ノース・エンドも、1881年にフットボール・クラブに変わって直ぐに8人のスコットランド人を迎えて急速に力を付けたチームでしたが、1884年のFAカップ4回戦で対戦したアプトン・パークからプロフェショナル選手が出場しているとの告発を受けて、事実関係は判明しませんでしたが、別の規則を破ったとしてFAから失格の裁定を受けました。

ランカシャーやミッドランドのクラブは、ノース・エンドと同じくスコットランド選手を加えており、彼らにプレー期間中の休業補償手当を支給していました。当初FAは強硬な態度に出ましたが、2年間渡る審議の末1885年7月20日にプロフェショナリズムを合法化しました。

サッカーのプロ化は、スコットランド・プレーヤーから始まったのです。実態としては何人もプロとしてプレーしていましたが、最初のプロ選手は、グラックバーン・ローヴァーズがFAに申告したジョン・イングリス(勿論スコットランド生まれ)です。

ブラックバーン・ローヴァーズ、アストン・ヴィラなど、ランカシャーを中心にプロ化するクラブが急増し、その組織運営のために安定した有料試合の確保を目的に、1888年3月2日、ヴィラの理事だったウィリアム・マグレガー(1847-1911、スコットランド、パースシャー・ブラコ生まれ、呉服屋)の提唱で、世界初のプロフェショナル・フットボール・リーグ、『The Football League』が誕生しました。

ヴィラ、ローヴァーズ、ボルトン・ワンダラーズ、ノース・エンド、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン、アクリントン、バーンリー、ダービー・カウンティ、エヴァートン、ノッツ・カウンティ、ストーク、ウォルヴァーハンプトン・ワンダラーズの12クラブでスタートした最初のリーグの覇者は、他でもなくプロ化問題の当事者ノース・エンドで、無敗で優勝した上、FAカップも制しダブルを達成。ノース・エンドはインヴィンシブルズ(無敵艦隊)と呼ばれました。

インヴィンシブルズが採用したフォーメーション、2-3-5は「ピラミッド・システム」と呼ばれ、1925年のオフサイド・ルールの変更まで38年間踏襲され、近代フットボールの基本形となりました。

スタジアム契約のもつれから、エヴァートンが去ったアンフィールドでプレーすることを目的に、1892年に設立されたリヴァプールにも、11人のスコットランド人が加入するなど、スコットランド・プレーヤーはイングランドのフットボールに欠かせない存在でしたが、FAがSFAやFAW、IFAに相談なくプロ化を容認したことに端を発して、以降のルール改正は、1882年12月6日に誕生して機能していなかったインターナショナル・フットボール・アソシエーション・ボード(IFAB)で決定することになりました(第1回の会合は1886年6月2日)。

メンバーは英国4協会で、投票の権利は平等(評決は4分の3以上の賛成)でした。1904年創設のFIFAがIFABに加わったのは1913年の事で、FIFAが2票、4協会もそれぞれ2票でした。現在の、FIFA4票、4協会それぞれ1票になったのは、ようやく1958年のことです。
スコットランド選手のイングランド進出
「上流階級の態度」とは、支配するために必要な能力として個人の力量を磨く、という意味でしょう。それをサッカーのプレーでいうと個人プレーを磨くことになります。

しかし、個人プレーよりも組織プレーの方がチーム力は上ですので、スコットランド・スタイルは、直ぐにイングランド北部に輸入されました。FAを中心とするロンドンのクラブは、個人主義を信奉するパブリック・スクールOBが中心となって創設したクラブが中心でしたが、それ以外の地区では教会、クリケット・クラブ、パブ、専修学校、そして産業革命の進展とともに急速に増えつつあった企業と、その労働者によって次々とクラブが誕生していました。

1882年のバーミンガムには52、ランカシャーでは1878年の30から1886年には114、というように増えて行き、1882年時点でFA傘下のクラブは千を越えています。イングランド北部の労働者クラブは、スコットランド的な背景のクラブが多いことから、都市化の進展とともに職を求めて流入するスコットランド人を受け入れて行きました。

そして1872年に始まったFAカップの優勝は、ロンドンとその近郊のパブリック・スクールOBクラブやオックスフォード大学、陸軍クラブといった上流階級のアマチュア・クラブに限られていましたが、1883年初めてランカシャーの労働者クラブであるブラックバーン・オリンピック(1877年創立)が、パブリック・スクールの名門、イートン・コレッジのOBクラブであるオールド・イートニアンズを下して優勝します。それ以降、南部名門アマチュア・クラブがFAカップを制することは一度もありません。

スコットランド選手をチームに加え、急速に力をつけた北部労働者クラブの代表が、84年からFAカップを三連覇したブラックバーン・ローヴァーズでした。ローヴァーズは、ライヴァルのオリンピックに対抗するためグラスゴウ・レンジャーズのヒュー・マッキンタイヤ(1855-1905グラスゴウ生まれ、スコットランド代表1/0)、同じレンジャーズからダーウィンFC(1875年創立)に加入していたファーガス・スーター(1857-?ブライスウッド生まれ)、そしてジミー・ダグラス(1859-1919、レンフリュー生まれ、スコットランド代表1/0)の3人を加え、スコットランド式のショート・パス戦法で、本家グラスゴウのクイーンズ・パークを下して、FAカップ初優勝を飾りました。
ショート・パスとスコットランド人
1863年FA発足当時のイングランド・サッカーは、パブリック・スクールのドリブリング・ゲームから発展したものでしたが、ボールよりも前方にいる味方選手はオフサイド・ポジションと看做すというラグビーと同じ規則だったので、横一列にバインド(密集)することが最も力強く、確実にボールを前進出来る方法で、守備側の攻撃(妨害)を、ドリブルをする選手のまわりに仲間が群がって防ぎながら集団で進むので、これを「マスドリブル」といいました。

常に両チームのFWラインがボールを中心に群がっている状態なので、かつてのパブリック・スクールにおいて上級生の下級生に対するいじめの方法にもなっていた、ゴールラインに人垣を作るゴールキーパーという存在は必要ありませんでした。

1866年、FAによってオフサイド・ルールが定められ、相手選手が少なくとも3人いれば前方の味方にパス出来る様になったことで、ゲームは一変しました。前にボールを大きく出して、ゴール前になだれ込むロングパス戦法、いわゆる「キック&ラッシュ」が登場したのです。

そして、1869年のハンドリングの全面禁止によって得点の可能性が飛躍的に増し、ゲームはよりエキサイティングなものになりました。そして、1871年のゴールキーパーの登場によって、ゲームは更に複雑、巧緻なものになるとともに、フォーメーションは8人の横一列のFWと2人のビハインド、即ち2-0-8、或いは正確なロングキックを駆使してゲームを作るプレーメイカー=センターハーフ(CH)を置いた1-1-8に発展しました。

ところがスコットランドにおいては、サッカーは最初からパス・ゲームでした。スコットランドのフォーメーションは2-2-6で、6人のFWも2人ずつのペアが3組で、主にペア同士がパスを交換して相手ゴールに持ち込むものだったようです。

1872年の最初の国際試合もイングランドの1-1-8(1-2-7という記述もあります)に対して、スコットランドは2-2-6でした。イングランドのユニフォームは、お揃いだったのはスリー・ライオンズの紋章がついた白いシャツだけで、ニッカーボッカーとソックスは各選手の所属クラブのものを着用していました。スコットランドは全員がクイーンズ・パークの選手だったので、青いシャツ、白のニッカーボッカー、青と白の横縞の靴下を身に付けていました。スコットランドの伝統のユニフォームはこれを継承しています。

イングランドのドリブリング・ゲームが何故スコットランドにおいてショートパス・ゲームに変貌したかについては、気候風土の違い(風の強いスコットランドではロングキックは成り立たない)、体格の差など諸説ありますが、フットボール歴史学者であり、ハンプデン・パークにあるスコッティシュ・フットボール博物館館長のゲド・オブライエンによると、

「それは、階級意識のせいです。スコットランドはイングランドに比べ、より共同主義的であり、平等主義でした。イングランドのフットボールのルールは、個人主義が重要とされるパブリック・スクールで決められました。しかし、スコットランドでは、社会が重要とされていました。フットボールに対する階級的偏見はなく、誰もが道でフットボールをして育ちました。」

「クイーンズ・パークは、13人の若者から成るチームでした。彼らはアバディーンとインヴァネスの間の北部地域出身で、金融や商業など、肉体労働以外の仕事を得るためにグラスゴウに来ていました。彼らは、1867年7月に正式にチームを結成しました。それはクライドサイド(かつて造船で有名だった地域)が世界の4分の1の船と鉄道を製造していた時代でした。」

「イングランドでは、130年間、フットボールは労働者階級の娯楽として見られてきました。しかし、彼らは上流階級の態度やルールでフットボールをしていたのだから、皮肉なものです。」と語っています。イングランド・サッカーは個人の資質を高めようとする『ジェントルマン精神』をバックボーンとした為、個人技に徹したキック&ラッシュとなり、スコットランドは『資本主義的合理精神』から共同作業の効率性を有効活用したパス・サッカーが、自然の流れとして誕生したということでしょう。
国際試合の始まり
世界初のサッカーの国際試合は、イングランドとスコットランドが1872年11月30日に、グラスゴウのパーティック地区にあった、ウェスト・オブ・スコットランド・クリケット・クラブ所有のハミルトン・クレッセント・グラウンドで行われた試合ですが、その前に両者は5度対戦しています。

それらの試合は「オールコックの国際試合」と呼ばれ、公式の国際試合としては認定されていませんが、FAカップの創設者で、第1回優勝のワンダラーズの選手でもあったFAの初期発展の功労者、FA第4代事務局長(名誉幹事)チャールズ・ウィリアム・オールコック(1842-1907、兄のジョンは、ワンダラーズの創設者で、FA創設メンバー)が企画したもので、最初の試合は、1870年3月5日、ロンドンのケニントンにあった、オールコック(クリケットのイングランド代表選手でもありました)が所属していたサリー・カウンティ・クリケット・クラブ所有のケニントン・オーヴァルで行われました。

試合は1-1の引き分けでしたが、スコットランドのメンバーは、オールコックのケンブリッジ大学の同窓で、後の第4代FA会長、当時はイートン校(イートン・コレッジ)OBのクラブであるオールド・イートニアンズのキャプテンだった、第11代キネード卿(ロード・アーサー・フィッツジェラルド・キネード、1847-1923)が選んでいます。彼は、ロンドンのケンジントン生まれでしたが、キネード家の所有地はスコットランドのパースでした。他のメンバーも全員がロンドン生まれかロンドン在住者でしたが、スコットランドに所縁のある選手を集めています。

第2回の試合は、同じく70年の11月19日にやはりケニントン・オーヴァルで行われ、イングランドが1-0でスコットランドを下しました。やはりオールコックとキネードの選抜対抗でしたが、この試合はスコットランドでも反響を呼び、当時アソシエーション式よりもラグビー式のフットボールが盛んなスコットランドでは、5つのクラブのキャプテンたちが共同で、12月8日発行の週刊スポーツ紙『ベルズ・ウィークリー』に、「全イングランドから選ばれたチームと20人制のラグビー・ルールの試合を望む」と広告を出しました。

オールコックとFAは、自分達の競技を11人制に限定することをルール化したばかりだったので、当然この申し出を無視しました。そして第3回目の国際試合を、71年2月25日にケニントン・オーヴァルで実施しています(1-1の引き分け)。

スコットランドの呼び掛けに応じたのは、71年1月26日に誕生したばかりのRFUでした。そして71年3月27日、エディンバラのレイバーン・プレイスにある、1857年創立のエディンバラ・アカデミカルズというクラブのグラウンドで、最古のフットボールの国際試合が実現し、その栄誉はラグビー・フットボールのものとなりました。

そしてスコットランドが1ゴール・1トライ対1トライ(スコアは4-1)で勝利しました(リターン・マッチはケニントン・オーヴァルで翌年に行われ、イングランドが雪辱しています。スコアは8-3)。但し、RFUルール(15人制)での最初の国際試合は、15人制が定められた1875年の2月15日、ケニントン・オーヴァルでのイングランド対アイルランドの試合でした(イングランドの2トライ1ゴールで、スコアは7-0)。

一方オールコックは、71年11月18日(イングランドの2-1の勝利)と72年2月24日(イングランドの1-0の勝利)をロンドンで開催した後、スコットランドの守護聖人であるセント・アンドリュースの記念日である11月30日を選んで、満を持してスコットランドにおける初めてのアソシエーション・フットボールの国際試合を計画しました。4千人の観衆を集めて実施されたのが冒頭の試合で、0-0の引き分けでした。

オールコックは怪我のため出場することが出来ず、イングランドのキャプテンは、フットボールだけでなくクリケット、ラケッツ、陸上、テニスでも代表という万能アスリート、その卓越した統率力を買われたオックスフォード大学の主将で、早逝の天才、カスバート・ジョン・オタウェイ(1850-1878)が務めました。

対するスコットランドの主将はロード・キネードではなく、スコットランド最古のアソシエーション・フットボール・クラブ(1867年創立)で、唯一FAカップに参加していたグラスゴウのクイーンズ・パークのキャプテン、ロバート・W・ガードナー(代表5/0)でした。

ガードナーは、オールド・イートニアンズのロード・キネード(スコットランド代表4/0)と、英国陸軍工兵隊のクラブで、第1回FAカップのファイナリストだった、第3代FA会長を後に務めることになるフランシス・アーサー・メリンディン大佐(1938-1900)が1863年に創立したロイヤル・エンジニアーズのCF、ヘンリー・ウォー・レニー−テイラー(1849-1920、スコットランド代表2/2)の出場を要請しましたが、二人とも都合がつかず、結局全員がクイーンズ・パークのメンバーで構成されました。

この試合が切っ掛けとなり、翌年1873年3月13日、グラスゴウのデュワーズ・ホテルに、クイーンズ・パーク、クライスデール、ヴェイル・オブ・レヴン、ダンブレック、サード・ラナーク、イースターン・グランヴィルの6クラブが集まり、文書で参加を表明したキルマーノックを加えた7クラブで、スコットランドFAが設立されました。クライスデールのアーチボルト・キャンベルが会長に、クイーンズ・パークのアーチボルト・レイが名誉幹事に選任され、対イングランド戦は毎年開催されることになりました。

73年は、3月8日にケニントン・オーヴァルで行われ、イングランドが4-2で勝利しましたが、スコットランドは翌年3月7日に2-1と勝利を収めると、5年間に亘りイングランドに負けませんでした。中でも78年3月2日のハンプデン・パークの試合は、7-2という輝かしいもので、イングランドの自尊心を大いに挫くとともに、年に一度の国際試合への関心は盛り上がりをみせました。そしてそれは、1884年から始まる最古の国際大会(トーナメント)である、ブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップの開催となって行きます。
バーバリアンズ
バーバリアンズは、白と黒の横縞ジャージで戦う、ホームグランドを持たない特殊なクラブで、1890年にイングランド人ウィリアム・パーシー・カープメイル(1853-1936)の発案で誕生しました。固定メンバーはおらず、試合の度に数名の役員によって選手選考が行われ、バーバリアンズから招待を受けることは大変な名誉であるとされています。アマチュア精神を尊び、見ていて面白い(攻撃的な)ラグビーをモットーとするチーム、と言われていて、最低一人は代表経験のない、ノンキャップの選手を入れること、ジャージは黒と白を基調としますがソックスだけは選手個人の所属クラブのものを履くという伝統があります。

試合のためだけに集めた即席チームですが、英国に遠征してきたチームは最終試合でこのバーバリアンズと激突することが多く、全勝で来ている場合は最後の難関となります。その他名門クラブとの定期戦、チャリティ・マッチも行い、1996年には阪神淡路大震災復興支援のため来日しています。尚日本人も1992年に林敏之選手、1996年に元木由記雄選手と、ともに神戸製鋼所属の二人が招集を受け、その名を残しています。

サッカーの世界では、プロの実力がアマを凌駕して久しいのでこうした存在はありませんが、現存するチームとしては1905年、ボブとホーレスのアラウェイ兄弟によって創立されたミドルセックス・ワンダラーズがこれに一番近いかも知れません。アマチュア・フットボール・アソシエーション4協会が、シーズン終了後に全英アマチュア代表選手を選抜し、海外での親善試合を目的に活動しています。

もう一つ、かつて打倒クイーンズ・パーク(グラスゴウ)を目的として、1882年にFAの副名誉幹事ニック・レーン・“パー”・ジャクソンが創設したイングランド・アマチュア選抜クラブ、コリンシアンズという、20世紀初頭実力世界一のチームが存在しました。

コリンシアンズは、1884年のFAカップでクイーンズ・パークを破って優勝したブラックバーン・ローヴァーズを同じ年に8-1で下し、1900年にはフットボール・リーグ王者のアストン・ヴィラを破り、1903年のFAカップ決勝でダービー・カウンティを6-0で下して優勝したバーンリーを10-3で下すなど、並みいるプロフェショナル・チームよりも強かった実力世界一のチームでした。

20世紀に入って海外遠征を行うようになると、レアル・マドリーがその強さの象徴であった白いユニフォームを真似、サンパウロではスポルト・クルブ・コリンシャンス・パウリスタが結成され、スウェーデンでは来訪を記念してコリンシアンズ・ボウルというトーナメントが始まるなど、多大の影響を残しました。実力的には、バーバリアンズはこちらに近いかも知れません。

ラグビーの南半球との交流試合(テストマッチ)が定着した最も大きな理由は、豪州、NZ、南アでのラグビー人気が高く、実力もライオンズに引けを取らなかったことが挙げられます。一方サッカーにおいては、プロ化によるイングランド・サッカーの進歩は著しく、スコットランドを除きイングランドの単独チームにさえ及ぶチームが他地域に存在せず、単独チームによる国際試合こそ頻繁に実施されたものの、1920年代まではイングランド代表を派遣する意味はありませんでした。
ブリティッシュ・ライオンズ
2001年の豪州遠征以降「ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズ」と名乗るラグビー・チームの正式名称は、ブリテン諸島ラグビー連盟チーム(ブリティッシュ・アイルズ・ラグビー・ユニオン・チーム)で、基本的に北半球では試合を行わず4年に一度南半球に遠征する為に結成される特別チームです。

現在は、ラグビー・フットボール・ユニオン(1871年創立)、スコットランド・ラグビー・ユニオン(1873年創立)、アイリッシュ・ラグビー・ユニオン(1874年創立)、ウェリッシュ・ラグビー・ユニオン(1881年創立)の公認チームですが、1888年に21名のイングランド選手に少数のスコットランド選手、ウェールズ選手を加えて豪州とニュージーランドを訪れて35試合を行ったチームはユニオンの承認を得たものではなく、商業的な思惑を目的としたものだったようです。

ラグビー選手は全員アマチュアでしたから、商業的というのは、ラグビー遠征という名目で経済的成長が著しい新大陸への旅費を募り、本業、或いは副業でのビジネスチャンスを得ようと云うものだったでしょうか。1851年に豪州ヴィクトリア州で、1861年NZオタゴで金鉱が発見され、ゴールドラッシュ現象により急速に人口が増加していました。

豪州にフットボールが伝えられたのは19世紀初頭の事で、英国からの移民、植民地開拓者、囚人らによって、英国流のしきたり、階級システム、文化などと共に、村や都市単位のチームが道路などで行っていた乱暴で危険な「モブ・フットボール」とパブリック・スクール式フットボールが持ち込まれました。しかし、発祥の地から1万9,000kmも離れ、定期的に情報が入ってくることもない土地では、フットボールは独自の方向へ進化を遂げました。

1850年初頭には、イングランドのパブリック・スクール卒業生が学生時代に採用していたルールに基づいて、メルボルンで大人数による試合が行われ、その後1859年に最初のメルボルン・ルールが制定されました。それは、1863年にロンドンでFAがルールを制定する4年前のことでした。

メルボルン・ルールでは、手を使ってボールを飛ばすハンドボールやキャッチが許されたため、独自のスピード感と流動感が生まれました。1860年代半ばまでには、大勢の人々がメルボルンのクリケット競技場や広場に集まり、フットボールを観戦するようになりました。1865年7月29日の『ベルズ・ライフ』誌の記事は、競技中のボールの動きを次のように描写しています。

「後ろへ前へ、こちらのサイドからあちらのサイドへ、そして場外へ。人ごみを抜け、再びフェンス脇の溝へ入ったと思ったら、今度はデニスじいさんのキャベツ畑へ。それから、再びユーカリの枝めがけてけり込まれ、ついにメルボルンのゴールに迫り、観客をハラハラさせている。そうこうしているうちに2時間以上が経ち、間近で観戦していた人でさえどちらのチームが勝っているのか分からなかった。」

オーストラリアン・フットボールは1860年後半までに、経済的に急速に発展していたヴィクトリア州メルボルンに定着し、1877年にはアマチュアのヴィクトリアン・フットボール・アソシエーションが設立されました。イングランドにおけるサッカーの発展のように観衆は益々多くなり、次第にフェンスや回転式入場口が設置されて入場料が徴集されるようになると、選手への報酬が支払われるようになって行き、プロフェショナルのチームによるヴィクトリア・フットボール・リーグ(1990年に始まる、現在のオーストラリアン・フットボール・リーグの前身)が1896年に組織されました。

一方、1864年に豪州で最初のラグビー・フットボール・クラブがシドニー大学で誕生し、1881年にNSW(ニュー・サウス・ウェールズ州)、1883年にQLD(クイーンズ・ランド州)にそれぞれ協会が発足し、永遠のライヴァルであるオール・ブラックス(ニュージーランド=NZ)やラグビーの母国イングランドを含むブリティッシュ・ライオンズとの国際試合が始まりましたが、オーストラリアン・ラグビー・ユニオンの設立は遅く、1949年のことです。

こうした背景から、ブリティッシュ・ライオンズは、21試合をオーストラリアン・ルールのフットボールをヴィクトリア州とサウス・オーストラリア州で戦い、6勝15敗の成績を残しています。ラグビー・フットボールの試合は豪州、NZ合わせて35試合で、国同士の試合、いわゆるテストマッチは1試合もありませんでしたが、州選抜、都市選抜、大学チームを相手に27勝8敗の戦績でした。

因みに豪州におけるアソシエーション・フットボール(サッカー)は、最も遅く1870年代に到来しました。それは、シドニー郊外の産業地域、およびNSW州やQLD州の町へ押し寄せた、英国からの新たな移民によって持ち込まれました。1884年に協会が設立され、地元リーグが発足し、州対抗試合も行われるようになったものの、これらの地域でさえ、サッァー人気は定着せず、20世紀に入るころには、ラグビー・ユニオン(15人制)やラグビー・リーグ(13人制)のほうが人気となり、豪州のどの州においても、サッカーは第2、第3のスポーツでしかありませんでした。また大規模に統合されることもなくアマチュアのままで、第一次世界大戦から第二次世界大戦後にかけてギリシャ、クロアチアやその他の欧州の国々からの新たな移民が流入するまで、盛り上がることはありませんでした。

ニュージーランド(NZ)国内で行われた初のラグビー公式試合は、1870年5月14日のネルソン・カレッジ対ネルソン・フットボール・クラブ戦です。以来、ネルソンはNZラグビーの誕生の地と看做されています。1879年、カンタベリーとウェリントンで初のラグビー・ユニオンが結成され、全国的な組織が出来たのは1892年ですが、それまでの間に海外遠征が行われるほど盛んになっていました。 初代NZ代表チームは、1884年にニュー・サウス・ウェールズ代表と対戦し全勝しています。1905年には、黒いジャージを身にまとい、力強い走りを生かしたプレーで、英国始めヨーロッパに旋風を巻き起こし「オールブラックス」の愛称が生まれます。

さて、成功裏に終わったライオンズの初遠征は次なる長征へのモチベーションを開き、1860年代大規模な金鉱の発見に沸く南アフリカへの遠征が企画されたのは、3年後の1991年のことでした。南部地域ユニオン(南アはまだ独立していなかったのでこの名称を名乗っていました)の招待を受けたRFUは正式に「ブリテン諸島チーム」を派遣し、テストマッチを実施しています(ライオンズの3勝0敗)。

その後は、96年に南ア(3勝1敗)、99年に豪州(3勝1敗)、1903年に南ア(0勝2分け1敗)、04年に豪州(3勝0敗)・NZ(0勝1敗)という具合に定着して行きました。「ブリティッシュ・ライオンズ」の称号は、1924年に南ア遠征を行った際に、選手のネクタイのライオンの紋章を見た地元ジャーナリストが創った造語だといわれています。
ラグビーとサッカーの分化
1871年、FA(フットボール・アソシエーション、1863年創立)の設立に関わったものの、統一ルールに賛同せず創設メンバーとはならなかったブラックヒース・フットボール・クラブ(1858年創立のガイズ・ホスピタル・フットボール・クラブに次ぐ2番目に古いフットボール・クラブ)が中心となり、21クラブが集いロンドンでラグビー・フットボール・ユニオン(RFU)が設立されました。

ブラックヒースがFAから離脱したのは、原案では認められていた、彼等が採用していたラグビー・スクール式のハッキング(相手を阻止する為膝を蹴るプレー)を、審議過程の途中、突然参考にされたケンブリッジ・ルール(ラグビー校ルールと異なるルールを採用しているイートン校、シュルースバリー校のOBを中心に1846年に学内で制定されたルール)に従い、FAが最終案で禁止したことによります。ハッキングこそフットボールの本質的プレーだと主張するブラックヒースはFA創設会議中に脱会し、ラグビー式フットボールを継続するとともに、ルールの整備を図りました。FAが13ヵ条のルールだったのに対し、ラグビー・ルールは70を越える複雑なものでしたが、社会的な非難もあり、RFUルールでもハッキングは禁止されています。

ラグビーは英国でも指折りの炭鉱地帯であるマンチェスターを中心とするイングランド北部ランカシャー、羊毛と織物業のヨークシャー地方、並びにやはり鉱工業の盛んなウェールズ南部を中心に発展しましたが、1895年、選手の所属企業などへの休業補償問題(現在企業所属プレーヤーはプロ契約ですが、当時は今と違ってラグビーは完全なアマチュアでした)から、北部クラブを中心にRFUからの分裂騒動が起き、22チームからなるプロリーグが発足しました。

それ以降、ケンブリッジ大学対オックスフォード大学戦に代表される南部を母体とするアマチュア主義を貫くRFUと、北部イングランドを基盤とする報酬を目的とするラグビー・フットボール・リーグ(RFL)とは、現在ではルールもかなり異なっています(15人制と13人制など)。RFUでは、アマチュア競技であることが永らく定められて来ましたが、1995年にこの「アマチュア宣言」が撤廃され、プロもアマも認める「オープン化」が宣言され、現在ではリーグとユニオンの両方のルールで前後半の試合を行うクロスコード・ゲームが行われることもあるそうです。

ラグビーの起源は、イングランドの有名なパブリック・スクールのラグビー校(ラグビー・スクール)において、1823年フットボールの試合中に生徒のウィリアム・ウェッブ・エリスがボールを抱えたまま走り出したことに端を発するとされていますが、これは1895年の北部リーグの分離独立に危機感を募らせたアマチュアリズムの堅持を標榜するラグビー・スクールOBたち(RFUの協会幹部は大半がラグビー・スクール出身者)が、ラグビーの起源を探る特別委員会を編成し、このロマンティックなストーリーを事実上認定することにより(エリス像を母校に作り)、ラグビー・スクールの権威を恣意的に揺るぎなきものにした、というのが真相です。

エリス伝説の真偽は、ラグビー校において19世紀初頭からボールを持って走る「ランニングイン」が始まったのは確かですが、その第1号がエリス少年だったかどうかは不明であり、手を使うこと自体は、彼の入学以前である19世紀初頭から始まっていたようです。

1884年、アソシエーション・フットボール(サッカー)でも同様にプロ化問題は発生し、ザ・ブリティッシュ・ナショナル・フットボール・アソシエーションという新しい組織が、やはりミッドランド、ランカシャーのクラブを中心に結成されました(50数チーム)。しかし、1885年にFAが2年に亘る議論の末にプロを容認し、分裂を回避します。そして1888年のフットボール・リーグの誕生とFAカップの興隆によってサッカーは、以降120年間爆発的、かつ幾何級数的な発展を遂げることになります。

プロ化の容認と否認。総本山の異なる判断によって、サッカーとラグビーは誕生から約20年の間に、競技内容、組織構成、競技人口・規模を大きく異にして行くことになります。
イングランド・リーグ選抜
1987年8月8日、ウェンブリー・スタディアムに6万1千人の観衆を集めて、フットボール・リーグ生誕百周年を記念して、フットボール・リーグXI対レスト・オブ・ザ・ワールドの試合が行われました。

リーグ選抜のメンバーは以下の通り。

1ピーター・シルトン(37、イングランド代表125/0)ダービー
2リチャード・ゴウ(25、スコットランド代表61/6)スパーズ
3ケニー・サンソム(28、イングランド代表86/1)アーセナル
4ジョン・マックルランド(31、北アイルランド代表53/0)ワトフォード
5ポール・マクグラス(27、アイルランド代表83/8)マンU
6リアム・ブレディ(31、アイルランド代表72/9)ウェストハム
7ブライアン・ロブソン(30、イングランド代表90/27)マンU
8ニール・ウェブ(24、イングランド代表26/4)ノッティンガム
9クライヴ・アレン(26、イングランド代表5/0)スパーズ
10ピーター・ベアズリー(26、イングランド代表59/9)リヴァプール
11クリス・ワドル(26、イングランド代表62/6)スパーズ
12コリン・クラーク(24、北アイルランド代表35/13)サウサンプトン
13スティーヴ・オグリゾヴィッチ(29、イングランド)コヴェントリー
14オズバルド・アルディレス(35、アルゼンチン代表53/8)スパーズ
15パット・ネヴィン(23、スコットランド代表28/5)チェルシー
16ノーマン・ホワイトサイド(22、北アイルランド代表13/2)マンU
17アラン・スミス(24、イングランド代表13/2)アーセナル
監督テリー・ヴェナブルス(44)スパーズ

世界選抜
1リナト・ダサエフ(30、ソ連代表91/0)スパルタク・モスクワ
2ジョジマール(25、ブラジル代表6/2)セビリア
3セウゾ(25、ブラジル)スポルティング・ブラガ
4フリオ・アルベルト(28、スペイン代表34/0)バルセロナ
5グレン・ヒーセン(27、スウェーデン代表68/6)フィオレンティーナ
6サルヴァトーレ・バーニ(30、イタリア代表41/4)ナポリ
7トーマス・ベルトルト(22、西ドイツ代表62/1)シュツットガルト
8ギャリー・リネカー(26、イングランド代表80/48)バルセロナ
9ミシェル・プラティニ(32、フランス代表72/41)引退
10ディエゴ・マラドーナ(25、アルゼンチン代表91/34)ナポリ
11パウロ・フットレ(21、ポルトガル代表41/6)アトレティコ・マドリー
12ラヨシュ・データーリ(24、ハンガリー代表61/13)フランクフルト
13イゴーエウ・ベラーノフ(26、ソ連代表33/8)ディナモ・キエフ
14ペーター・ラーション(29、スウェーデン代表47/4)アヤックス
15エルケア・ラルセン(29、デンマーク代表69/38)ヴェローナ
16アレクサンドル・ザヴァロフ(26、ソ連代表41/6)ディナモ・キエフ
17ドラガン・ストイコヴィッチ(22、ユーゴ代表84/15)クルヴェナ・ズベズダ
18アンドニ・スビサレッタ(25、スペイン代表129/0)バルセロナ
監督サー・ボビー・ロブソンCBE(54)

アイルランド代表のブレディ、マグラス、アルゼンチン代表のアルディレスが入っていますし、バルサのリネカーやスコティッシュリーグのグレアム・スーネス、レイ・ウィルキンス、テリー・ブッチャーなどが外れていますのでチームGBとは言えませんが、最もそれに近いチームだったかも知れません。

試合の方は、「神の手ゴール」のマラドーナが持つ度に大ブーイングが鳴り響く中、この試合が最後のプレーとなったプラティニが絶妙なパスを披露したものの、リーグ選抜がロブソンのヘッド(23分)とホワイトサイドのゴール(58分)で2-0と勝利しています。

百周年記念試合は、11月25日(水)にエヴァートンがドイツ王者のバイエルンを迎えて行われ、イングランド王者が3-1で勝っていますが、来季からマンチェスター・シティの指揮を執ることになった、まだ髪の黒いマーク・ヒューズがバイエルンの1点を決めています。
1912ストックホルム五輪金メダルメンバー
フォーメーション=2-3-5

GKロナルド・“ロン”・ギルクリスト・ブレブナー(1881-1914、ダーリントン生まれ=試合中の頭部負傷が原因で死亡)ハダースフィールド・タウン-レスター・フォッシー(レスター・シティの前身)、3試合

RBトーマス・クリストファー・バーン(1888-1916又は1938)3試合

LBアーサー・エガートン・ナイト(1887-1956)ポーツマス/コリンシアンズ、3試合(イングランド代表1/0)

RH/CHヘンリー・リトルウォート(1882-1934)3試合

RHダグラス・S・マクワーター(1886-1966、エリス生まれ)1試合

CHハロルド・ジャック・スタンパー(1889-1939)1試合

CHエドワード・テレンス・ハニー(1889-?)1試合

LHジョセフ・ジェームズ・ダインズ(1886-1918、キングス・リン生まれ、第一次世界大戦にて死亡)3試合

ORアーサー・ベリー(1888-1953)オックスフォード大学(イングランド代表1/0)2試合1得点

ORエドワード・ゴールデン・ダンダス・ライト(1884-1947)1試合

IRヴィヴィアン・ジョン・ウッドウォード(1879-1954、ケニントン生まれ)クラックトン・タウン、トッテナム・ホットスパー、チェルシー(イングランド代表23/29、アマチュアイングランド代表30/44・・・1906年フランス戦15-0で8ゴール)主将、3試合1得点

CFハロルド・エイドリアン・ウォルデン(1889-1955、アードウィック生まれ)ハリファックス・タウン、ブラッドフォード・シティ、アーセナル、3試合9得点

ILゴードン・ラヒア・ホーア(1884-1973、ブラックヒーズ生まれ)ウェスト・ノーウッド−ウーリッジ・ポリテクニック、ブロムリー、ウーリッジ・アーセナル、グロソップ・ノース・エンド、クイーンズ・パーク・レンジャーズ、フルアム、3試合2得点

OLアイヴァン・ゴードン・シャープ(1889-1968、セントアーバンズ生まれ)リーズ・シティ、リーズ・ユナイテッド、3試合

6月30日1回戦 7-0ハンガリー
ブレブナー:バーン、ナイト:リトルウォート、ハニー、ダインズ:ベリー、ウッドウォード、ウォルデン、ホーア、シャープ

7月2日準決勝 4-0フィンランド
ブレブナー:バーン、ナイト:リトルウォート、スタンパー、ダインズ:ライト、ウッドウォード、ウォルデン、ホーア、シャープ

7月4日決勝 4-2デンマーク
ブレブナー:バーン、ナイト:マクワーター、リトルウォート、ダインズ:ベリー、ウッドウォード、ウォルデン、ホーア、シャープ

レスター、バーミンガム、ウルブスなどフットボール・リーグのクラブに所属している選手たちは、全員アマチュア契約選手でした。
1908ロンドン五輪金メダルメンバー
フォーメーション=2-3-5

GKホーレス・ピーター・ベイリー(1881-1960、ダービー生まれ)レスター・フォッシー(レスター・シティの前身、イングランド代表5/0)3試合

RBウォルター・“ウェッティ”・サミュエル・コーベット(1880-1955、ウェリントン生まれ)バーミンガム(バーミンガム・シティの前身、イングランド代表3/0)3試合

LBハーバート・スミス(1879-1951)レディング、3試合(イングランド代表4/0)

RHケネス・レジナード・ガネリー・ハント(1884-1949、オックスフォード生まれ)レイトンFC、ウォルヴァーハンプトン・ワンダラーズ、3試合(イングランド代表2/0)

CHフレデリック・ウィリアム・チャップマン(1883-1951)3試合2得点

LHロバート・“ボブ”・マーレー・ホークス(1880-1945、ブリーチウッド・グリーン生まれ)ルートン・タウン、3試合2得点(イングランド代表5/0)

ORアーサー・ベリー(1888-1953)オックスフォード大学、3試合1得(イングランド代表1/0)

IRヴィヴィアン・ジョン・ウッドウォード(1879-1954、ケニントン生まれ)クラックトン・タウン、トッテナム・ホットスパー、チェルシー(イングランド代表23/29、アマチュアイングランド代表30/44・・・1906年フランス戦15-0で8ゴール)主将、3試合3得点

CFハロルド・“ハリー”・S・スタプリー(1883-1937、サウスボロ生まれ)3試合6得点

ILクライド・ハニセット・パーネル(1877-1934、)クラプトンFC、3試合4得点

OLハロルド・ペイン・ハードマン(1882-1965、カークマンシューム生まれ)ブラックプール、エヴァートン、マンチェスター・ユナイテッド、ブラッドフォード・シティ、ストーク・シティ、3試合(イングランド代表4/1)

10月20日1回戦 12-1スウェーデン

10月22日準決勝 4-0オランダ

10月24日決勝 2-0デンマーク
ロンドン五輪と大英代表チーム
「オリンピック本大会に出場するための予選に参加する英国のチームは、W杯と同じようにイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドで参加するのでしょうか?」という2008/ 6/ 7 12:40 ( No.1632)のdogost97さんの投稿に対して。


dogost97さん、お久しぶりですね。


ロンドン2012のHPをみると、会場としてウェンブリー、オールド・トラフォード、ミレニアム・スタディアム(ウェールズ・カーディフ)、セント・ジェームズ・パーク、ハンプデンパーク(スコットランド・グラスゴウ)、ヴィラ・パークを予定しています。

また、FA、スコティッシュFA、アイリッシュFAがリンクされていますので、チーム・グレートブリテンの協力体制作りは進んでいるようです。フットボール・アソシエーション・オブ・ウェールズがリンクされていないのは、FAWが統一チームに反対しているからでしょう。

1908年ロンドン五輪、1912年ストックホルム五輪の金メダルチームは、全員がイングランド人でした。FIFAは五輪サッカーを現在のU-23+OA3をU-20にしようと目論んでいるようです。どんなレギュレーションになるのか分りませんが、史上初めて全英チーム(チームGB)が登場する機運はあるようです。
今回のユーロ予想
今回のユーロ予想をしていたのですが、そのトピが消滅してしましました。今更ですが、

Aポルトガル、チェコ
Bドイツ、クロアチア
Cイタリア、ルーマニア
Dスペイン、ロシア

ベスト4は
ドイツ>ポルトガル
ロシア>イタリア

決勝は
ドイツ>ロシアと予想していました。

いよいよベスト4の激突。スペイン=ブラジル(ポゼッションつながり)、ロシア=韓国(ヒディングつながり)に置き換えると、対戦相手こそ逆ですが、W杯02コリア・ジャパンを思い出します。とすると、スペインとドイツが勝ち上がり、スペインの優勝?!

私は、あくまでドイツ>ロシアで通そうと思います。
ユーロ08「イタリア2-0フランス」
フランスの次なるビッグタイトルへの道のりは、思った以上に長くなるかも知れないですね。

ブラジルはペレが代表引退してから、次のW杯制覇まで24年かかっています。リヴェリーノ、ジーコ、ソクラテス、ファルカン、カレッカ、ミュレル、バウド、世界トップの後継者を次々と生み出しながら、なかなか世界一には届きませんでした。

フランク・リベリー(24)、カリム・ベンゼマ(20)、スティーヴ・マンダンダ(24)、サミル・ナスリ(20)といった逸材がこれからの『レ・ブルー』を牽引して行くでしょうが、やはり偉大なジダン(35)の不在を否応なく感じさせられました。
オシムのアドバイザー就任について
いつもそうですが、賢人オシムの言葉は、心に響く深い味わいがあります。昨日、オシムが日本サッカーのために、今後もアドバイザーとして残ってくれることになりました。今年12月まで、という契約期間は不満ですが、これは彼の健康状態の推移を見て、更新するという意味でしょう。

昨日の発言の中で一番強く印象に残った事は、監督として日本を世界一に導くいう夢をもっておられたということです。後任の岡ちゃんは「世界を驚かそう」といって世界3位を目標に挙げましたが、オシムはその上を行っていた訳です。返す返すも、彼の監督退任は残念でした。

ただ、彼ほどの人物が日本を指導していて、世界一も夢ではないと思っていてくれたことが、嬉しいし、今後の自信にもなります。夢を捨てないで『頑張る』ことが大事です。

その指針として、彼が指摘していることは、 「日本サッカーの中には、上手な選手は少ししか走らなくていいと考える傾向があります。それを直さなければいけません。逆ですよ。テクニックのある選手がたくさん走れば、もっといいサッカーができる、そのように考えてはどうですか? そこから直しましょう。」ということです。

ずっと彼が指導実践していることでもあり、その正しさは昨シーズン、アーセン・ヴェンゲル監督のアーセナル、そしてダブルを達成したマンUのサー・アレックス・ファーガソンが実証して見せました。アデバヨール、セスク、ルーニー、テベス、みんな献身的に走って、強固な守備ブロックを破って見せました。

日本人がテクニックがあるのは、止まっている状態でのことです。高速で移動しながらのテクニックを身に付けている選手は、殆どいません。しいて挙げれば、中村俊輔と松井大輔だけでしょうか。以前は、小野伸二、稲本潤一、高原直泰、本山雅志、永井雄一郎などにその可能性がありましたが、オシムの指摘通り、「上手な選手は少ししか走らなくていい」環境の中で高度なテクニックを身に付けるチャンスを逸してしまいました。

これからの若い選手達には、よりスピーディーでより正確なコントロールを目指して、研鑽してもらいたいものです。