引き分けに終わったウズベキスタンとのW杯南ア最終予選第2戦。最大の失敗は、短く刈り込んだ芝(22ミリ)と放水でした。速いパスワークを生かす目的に取った処置でしたが、ボールが走り過ぎてミス・パスの連発を招いてしまいました。
キックの強さとパス方向の両方を修正(いつもと違う感覚)する強迫観念に怯え、ホームで絶対勝利というこの試合の持つ重要性がプレッシャーを増し、パスをミスする度に積極性を失わせ、リズムを生み出す大事な時間帯に自ら主導権を相手に渡してしまったのです。
これ以上負けると予選が終わってしまう、後のない立場のウズベクは、意外な日本のもたつきに乗ずる形で、本来の自分達の良さを発揮しました。日本が引き出したとも言える、不味い流れでした。先制点はトゥーリオの中途半端なクリアを拾われたショートカウンターでしたが、ある意味必然だったと言えます。
日本のパスは、ミスを恐れ動きのない出し手から、静止している受け手への、点から点へのものばかりとなり、たまにサイドのフリー・スペースに走り込む先に出たパス、いつもなら正確に通っていた筈のスルーは、無常にもタッチ・ラインを割り、その度にノッキングを起し、個々のスタミナを奪って行きました。
前半の同点ゴールは、ひとえに中村俊輔の個人スキル高さのお陰です。ボックス内に一瞬生まれた小さなギャップを、ジャスト・タイミングで通したパス。セルティックでの経験の成した場面でした。勿論、大久保の折り返しをきっちり詰めた玉田も第一級の殊勲者です。
後半は、ピッチへの慣れからリズムが生まれるかと期待しましたが、予想外に浪費したスタミナのせいでテンポはあがることはありませんでした。こうした条件化では、交替策も効果はありません。何故なら、途中出場の選手の方が、よりピッチへの違和感が大きいからです。経験豊かな稲本は流石によく対応していましたが、岡崎も興梠も効果的な武器とはなり得ませんでした。
ホームでの負けという、最悪の事態を招かなかったことが、せめてもの慰めでした。ガラスのような繊細さに例えられる、細かいパスワークが唯一の武器である岡田ジャパン。南アフリカに向けて、暗雲が立ち込めた一戦でした。
キックの強さとパス方向の両方を修正(いつもと違う感覚)する強迫観念に怯え、ホームで絶対勝利というこの試合の持つ重要性がプレッシャーを増し、パスをミスする度に積極性を失わせ、リズムを生み出す大事な時間帯に自ら主導権を相手に渡してしまったのです。
これ以上負けると予選が終わってしまう、後のない立場のウズベクは、意外な日本のもたつきに乗ずる形で、本来の自分達の良さを発揮しました。日本が引き出したとも言える、不味い流れでした。先制点はトゥーリオの中途半端なクリアを拾われたショートカウンターでしたが、ある意味必然だったと言えます。
日本のパスは、ミスを恐れ動きのない出し手から、静止している受け手への、点から点へのものばかりとなり、たまにサイドのフリー・スペースに走り込む先に出たパス、いつもなら正確に通っていた筈のスルーは、無常にもタッチ・ラインを割り、その度にノッキングを起し、個々のスタミナを奪って行きました。
前半の同点ゴールは、ひとえに中村俊輔の個人スキル高さのお陰です。ボックス内に一瞬生まれた小さなギャップを、ジャスト・タイミングで通したパス。セルティックでの経験の成した場面でした。勿論、大久保の折り返しをきっちり詰めた玉田も第一級の殊勲者です。
後半は、ピッチへの慣れからリズムが生まれるかと期待しましたが、予想外に浪費したスタミナのせいでテンポはあがることはありませんでした。こうした条件化では、交替策も効果はありません。何故なら、途中出場の選手の方が、よりピッチへの違和感が大きいからです。経験豊かな稲本は流石によく対応していましたが、岡崎も興梠も効果的な武器とはなり得ませんでした。
ホームでの負けという、最悪の事態を招かなかったことが、せめてもの慰めでした。ガラスのような繊細さに例えられる、細かいパスワークが唯一の武器である岡田ジャパン。南アフリカに向けて、暗雲が立ち込めた一戦でした。
1894年ピエール・ド・クーベルタン男爵(1863-1937)が提唱し、1896年アテネ大会から始まった近代オリンピックにおいて、1900年パリ大会の公開競技としてサッカーとラグビーは初めて実施されました。発足当初のオリンピックは、個人が直接国際オリンピック委員会(IOC)に出場を申し込む形式で、パリ大会でのサッカー採用の経緯ははっきりしませんが、イングランドからアプトン・パークFC、ベルギーからブリュッセル大学が参加しています。
1900年10月20日500名の観衆の前で、地元フランスのクラブ・フランセーズとアプトン・パークが対戦し(4-0)、敗者のフランセーズが10月23日にブリュッセルと対戦し6-2で勝ったことで(観衆愁1,500人)、2試合のみで順位が決定しています。
この試合を見た、オランダ・サッカー協会の事務局長カール・アントン・ウィレム・ヒルシュマンは、アマチュアしか参加出来ないオリンピックとは別に、英国のプロを含む真の世界王者を決めたいと考えました。直ぐにFA会長のアーサー・キネード卿に提案しますが、全く反応はありませんでした。それでもヒルシュマンは怯むことなく、今度は、フランス体育スポーツ協会連合(USFSA)のフットボール委員会幹事だったロベール・ゲラン(1876-1952)に相談を持ちかけます。
『ル・マタン』紙の記者でもあったジャーナリストのゲランは、同じフランス人のクーベルタンの事業(オリンピック)に大いに刺激を受けていた一人だったので(クーベルタンはUSFSAの事務局長で、青少年サッカー・チームを率いて、イートン校との国際試合を挙行したことがあります)、ヒルシュマンの提案に賛同し、大会を開催する前に統括団体を作るという策を提案しました。
そしてヒルシュマンの呼び掛けにより、1904年5月21日、フランス(USFSA)、ベルギー(王立ベルギー・サッカー協会URBSFA)、デンマーク(デンマーク・サッカー連合DBU)、オランダ(オランダ・サッカー連合NVB)、スペイン(マドリード・フットボール・クラブ=レアル・マドリーの前身)、スウェーデン(スウェーデン・フットボール協会SBF=デンマークに委任)、スイス(スイス・サッカー協会ASF)の代表がパリのUSFSA本部に集まり、そして電信で加盟を表明したドイツを加えた8カ国で、9月1日にFIFAは正式に結成されました。
英国4協会は国際組織の必要性に懐疑的で、設立当初参加しませんでしたが、URBSFAの初代会長エドゥアルド・ド・ラヴレー男爵(1895-1924)の働き掛けで、1905年4月14日にFAのFIFA加盟と、ホーム・ネイションFA(スコティッシュFA、ウェールズFA、北アイルランドFA)の加盟内諾が実現しました。この功績により、ド・ラヴレーは、FIFA初の名誉会員となりました(後に初代ベルギー・オリンピック委員会委員長にも就任)。
これにより、FIFAは、結成当初の目的であった国際大会を1906年に開催の目論みは前進したかに見えました。しかし、財政的裏付けを確立することが出来ず断念せざるを得ませんでした。この頃から、ゲランは会長職を不在にすることが多くなり、幻の国際大会優勝トロフィーを寄付した副会長のヴィクター・D・シュナイダーと、彼の個人的秘書のアンドレ・エスピールが運営の中心なります。
そのシュナイダーのお膳立てで、ランカシャー・サッカー協会の会長で、FAの理事でもあったブラックバーン出身のダニエル・バーリー・ウールフォール(1852-1918)が、ゲラン不在の1906年6月4日、ベルンでのFIFA臨時総会に於いて、第2代FIFA会長に就任しました。会長となったウールフォールは、英国と欧州大陸のルールの統一、そして1908年と1912年の五輪正式種目となるよう尽力しました。
こうして実現した英国のオリンピック参加でしたが、英国代表の選出は、ホーム・ネイションFAの『黙認』の下、アマチュア・チーム登録が圧倒的に多いFAに託され、従って全員がイングランド人のアマチュア選抜でした。それでも、イングランドに対抗出来るのは1チームしかなく、そのデンマークも英国(=イングランド)の連続優勝を阻むだけの力はありませんでした。
オリンピックがFIFA結成の直接的な原因であり、そのFIFAへのFA(イングランド)の加盟が、サッカーのオリンピック正式競技へと繋がったというが歴史的流れです。
1900年10月20日500名の観衆の前で、地元フランスのクラブ・フランセーズとアプトン・パークが対戦し(4-0)、敗者のフランセーズが10月23日にブリュッセルと対戦し6-2で勝ったことで(観衆愁1,500人)、2試合のみで順位が決定しています。
この試合を見た、オランダ・サッカー協会の事務局長カール・アントン・ウィレム・ヒルシュマンは、アマチュアしか参加出来ないオリンピックとは別に、英国のプロを含む真の世界王者を決めたいと考えました。直ぐにFA会長のアーサー・キネード卿に提案しますが、全く反応はありませんでした。それでもヒルシュマンは怯むことなく、今度は、フランス体育スポーツ協会連合(USFSA)のフットボール委員会幹事だったロベール・ゲラン(1876-1952)に相談を持ちかけます。
『ル・マタン』紙の記者でもあったジャーナリストのゲランは、同じフランス人のクーベルタンの事業(オリンピック)に大いに刺激を受けていた一人だったので(クーベルタンはUSFSAの事務局長で、青少年サッカー・チームを率いて、イートン校との国際試合を挙行したことがあります)、ヒルシュマンの提案に賛同し、大会を開催する前に統括団体を作るという策を提案しました。
そしてヒルシュマンの呼び掛けにより、1904年5月21日、フランス(USFSA)、ベルギー(王立ベルギー・サッカー協会URBSFA)、デンマーク(デンマーク・サッカー連合DBU)、オランダ(オランダ・サッカー連合NVB)、スペイン(マドリード・フットボール・クラブ=レアル・マドリーの前身)、スウェーデン(スウェーデン・フットボール協会SBF=デンマークに委任)、スイス(スイス・サッカー協会ASF)の代表がパリのUSFSA本部に集まり、そして電信で加盟を表明したドイツを加えた8カ国で、9月1日にFIFAは正式に結成されました。
英国4協会は国際組織の必要性に懐疑的で、設立当初参加しませんでしたが、URBSFAの初代会長エドゥアルド・ド・ラヴレー男爵(1895-1924)の働き掛けで、1905年4月14日にFAのFIFA加盟と、ホーム・ネイションFA(スコティッシュFA、ウェールズFA、北アイルランドFA)の加盟内諾が実現しました。この功績により、ド・ラヴレーは、FIFA初の名誉会員となりました(後に初代ベルギー・オリンピック委員会委員長にも就任)。
これにより、FIFAは、結成当初の目的であった国際大会を1906年に開催の目論みは前進したかに見えました。しかし、財政的裏付けを確立することが出来ず断念せざるを得ませんでした。この頃から、ゲランは会長職を不在にすることが多くなり、幻の国際大会優勝トロフィーを寄付した副会長のヴィクター・D・シュナイダーと、彼の個人的秘書のアンドレ・エスピールが運営の中心なります。
そのシュナイダーのお膳立てで、ランカシャー・サッカー協会の会長で、FAの理事でもあったブラックバーン出身のダニエル・バーリー・ウールフォール(1852-1918)が、ゲラン不在の1906年6月4日、ベルンでのFIFA臨時総会に於いて、第2代FIFA会長に就任しました。会長となったウールフォールは、英国と欧州大陸のルールの統一、そして1908年と1912年の五輪正式種目となるよう尽力しました。
こうして実現した英国のオリンピック参加でしたが、英国代表の選出は、ホーム・ネイションFAの『黙認』の下、アマチュア・チーム登録が圧倒的に多いFAに託され、従って全員がイングランド人のアマチュア選抜でした。それでも、イングランドに対抗出来るのは1チームしかなく、そのデンマークも英国(=イングランド)の連続優勝を阻むだけの力はありませんでした。
オリンピックがFIFA結成の直接的な原因であり、そのFIFAへのFA(イングランド)の加盟が、サッカーのオリンピック正式競技へと繋がったというが歴史的流れです。
昨夜、W杯最終予選に向けた準備試合で、日本と1-1の引き分けを演じたUAEの監督は、何とバテナイ(56)でした。
試合後、後半からジャベル(6番)が中村俊輔をマークしていたが、ハーフタイムに指示したのか、という質問に対して、「よく見ているね(笑)。日本の10番、あえて名前は言わないが、彼は随分と我々を困らせてくれた。だから、前半の最後と後半はマンマークをするようにしていた」、とかつてフランスの将軍、ミシェル・プラティニと中盤を構成していたバテナイは答えています。
バテナイの監督履歴は、
87-88 フットボール・クルブ・ドゥ・セト34(2部12位)
88-89 スタッド・ドゥ・ランス(2部7位)
89-90 ウニオン・スポルティヴ・モナスティリアンヌ(チュニジア)
90-94 ASショワジー・ル・ロワ(現在4部)
96/3-6 サンテチエンヌ(1部19位で降格)
00-01 ニーム・オリンピック(2部8位)
02/5-11セーシェル代表
03-04 CSスダン・アルデンヌ
06 カタール代表
08 UAE代表
と、現役時代「鉄の肺」と呼ばれ、サンテチエンヌの3連覇に貢献したミッドフィールダーにとっては、決して華々しいものではありません。
試合後、後半からジャベル(6番)が中村俊輔をマークしていたが、ハーフタイムに指示したのか、という質問に対して、「よく見ているね(笑)。日本の10番、あえて名前は言わないが、彼は随分と我々を困らせてくれた。だから、前半の最後と後半はマンマークをするようにしていた」、とかつてフランスの将軍、ミシェル・プラティニと中盤を構成していたバテナイは答えています。
バテナイの監督履歴は、
87-88 フットボール・クルブ・ドゥ・セト34(2部12位)
88-89 スタッド・ドゥ・ランス(2部7位)
89-90 ウニオン・スポルティヴ・モナスティリアンヌ(チュニジア)
90-94 ASショワジー・ル・ロワ(現在4部)
96/3-6 サンテチエンヌ(1部19位で降格)
00-01 ニーム・オリンピック(2部8位)
02/5-11セーシェル代表
03-04 CSスダン・アルデンヌ
06 カタール代表
08 UAE代表
と、現役時代「鉄の肺」と呼ばれ、サンテチエンヌの3連覇に貢献したミッドフィールダーにとっては、決して華々しいものではありません。
オシムはイタリアW杯の後、代表監督を辞任することを考えていましたが、毎年各共和国の持ち回りで会長が選出されることが恒例となっていたユーゴ・サッカー協会の新しい会長に、モンテネグロ人のミリヤン・ミリヤニッチ(1930年生まれ)が就任しました。
かつてレッドスターで10度の優勝を飾り、ギュンター・ネッツァーを擁した
レアル・マドリードでは2度リーガを制し、74年W杯ザイール戦で9-0を記録した代表チームを率いたミリヤニッチと話し合った結果、オシムは代表に留まることを決めたのでした。
ユーゴスラヴィアは、92年ユーロ予選第4グループ(ユーゴ、デンマーク、北アイルランド、オーストリー、フェロー諸島)を7勝1敗(第1戦の北アイルランドに0-2)、得点24失点2という圧倒的な強さで勝ち抜きました。しかし、内戦激化から本大会への道は閉ざされ、代替出場のデンマークが優勝したのでした。
かつてレッドスターで10度の優勝を飾り、ギュンター・ネッツァーを擁した
レアル・マドリードでは2度リーガを制し、74年W杯ザイール戦で9-0を記録した代表チームを率いたミリヤニッチと話し合った結果、オシムは代表に留まることを決めたのでした。
ユーゴスラヴィアは、92年ユーロ予選第4グループ(ユーゴ、デンマーク、北アイルランド、オーストリー、フェロー諸島)を7勝1敗(第1戦の北アイルランドに0-2)、得点24失点2という圧倒的な強さで勝ち抜きました。しかし、内戦激化から本大会への道は閉ざされ、代替出場のデンマークが優勝したのでした。
イビツァ・オシムは、1991年7月、パルチザン・ベオグラードを率いて来日しています。「日本サッカー史資料編」を見ていて気付きました。
7月18日は大宮サッカー場で日本代表と第1戦を戦い1-1で引き分けています。どちらの得点もDFの選手で、パルチザンが32分、ブディミール・ブヤチッチ(27歳、190/84)、日本が現ヴェルディ監督、柱谷哲二(36分)です。
7月20日三ツ沢での第2戦は1-0。50分に、現レアル・マドリード、スポーティング・ディレクターで、当時期待のストライカーだったプレドラク・ミヤトヴィッチ(22歳、177/73)が決めています。
私はオシムの来日は、1964年の東京五輪以来だとばかり思っていましたが、90年のW杯でユーゴをベスト8に導き、騒乱のユーゴ情勢の中、引き続き代表監督を務める傍ら、パルチザンの監督を兼任していたこの時期、来日を果たしていました。
『イビチャ・オシムの真実』の中でオシムは、「当時、私はパルチザン・ベオグラードの監督でもあったが、惜しくもリーグ優勝をレッドスター譲ってしまったところだった。当時は引き分けの後に必ずPK戦をしていた。それで勝ちが勝ち点1、負ければ0。その結果、勝ち目のないアウトサイダーのチームはPK戦に持ち込むべく、守備一辺倒の試合をしたものだ。」と語っています。
パルチザンはPK戦を7度戦い3勝4敗、リーグ順位は3位でした。このシーズン、サヴィチェヴィッチ、ミハイロヴィッチ、プロシネチキ、パンチェフ、ベロデディチ、ジュキッチ、サバナゾヴィッチなどを擁するライヴァルであるレッドスターはリーグだけでなくチャンピオンズ・カップも制覇しています。
オシムは、W杯イタリア大会でアルゼンチンとのPK戦を控え室で待って以来、ずっとピッチを去るようになりました。たった一度、2001年1月のシーズン中断期間に行われたトルコ・アンタルヤ・カップの決勝で、シュトルム・グラーツが3-3でヴェルダー・ブレーメンとPK戦になった時、選手たちとピッチに留まった時がありました。シュトルムは3-4で敗れたのです。
7月18日は大宮サッカー場で日本代表と第1戦を戦い1-1で引き分けています。どちらの得点もDFの選手で、パルチザンが32分、ブディミール・ブヤチッチ(27歳、190/84)、日本が現ヴェルディ監督、柱谷哲二(36分)です。
7月20日三ツ沢での第2戦は1-0。50分に、現レアル・マドリード、スポーティング・ディレクターで、当時期待のストライカーだったプレドラク・ミヤトヴィッチ(22歳、177/73)が決めています。
私はオシムの来日は、1964年の東京五輪以来だとばかり思っていましたが、90年のW杯でユーゴをベスト8に導き、騒乱のユーゴ情勢の中、引き続き代表監督を務める傍ら、パルチザンの監督を兼任していたこの時期、来日を果たしていました。
『イビチャ・オシムの真実』の中でオシムは、「当時、私はパルチザン・ベオグラードの監督でもあったが、惜しくもリーグ優勝をレッドスター譲ってしまったところだった。当時は引き分けの後に必ずPK戦をしていた。それで勝ちが勝ち点1、負ければ0。その結果、勝ち目のないアウトサイダーのチームはPK戦に持ち込むべく、守備一辺倒の試合をしたものだ。」と語っています。
パルチザンはPK戦を7度戦い3勝4敗、リーグ順位は3位でした。このシーズン、サヴィチェヴィッチ、ミハイロヴィッチ、プロシネチキ、パンチェフ、ベロデディチ、ジュキッチ、サバナゾヴィッチなどを擁するライヴァルであるレッドスターはリーグだけでなくチャンピオンズ・カップも制覇しています。
オシムは、W杯イタリア大会でアルゼンチンとのPK戦を控え室で待って以来、ずっとピッチを去るようになりました。たった一度、2001年1月のシーズン中断期間に行われたトルコ・アンタルヤ・カップの決勝で、シュトルム・グラーツが3-3でヴェルダー・ブレーメンとPK戦になった時、選手たちとピッチに留まった時がありました。シュトルムは3-4で敗れたのです。
ハビエル・アデルマール・サネッティ(1973年8月10日生まれ35歳、178cm73kg、アルゼンチン代表121試合5得点)が、2008年9月24日(水)、08/09レガ・カルチョ・セリエA第4節レッチェ戦(1-0でインテルの勝利)で、インテルの選手として公式戦600試合を達成しました。
これは、ジュゼッペ・ベルゴミの758、ジャチント・ファッケッティの634に次ぐ、インテル史上第3位の偉大な記録です。アルゼンチン、ブエノス・アイレス生まれ、22歳でクルブ・アトレーティコ・ベレス・バンフィエルドから移籍したサネッティが、インテルのようなメガ・クラブでこんなに長くプレーし続けているのは驚異的なことです。
4位以下を見ますと、サンドロ・マッツォーラ(565)、5位ジュゼッペ・バレジ(559)、6位マリオ・コルソ(502)、7位ワルター・ゼンガ(473、森本貴幸の所属する、今季好調なカターニャの監督ですね)、8位タルチシオ・ブルーニキ(467)、9位アレッサンドロ・アルトベッリ(466)、10位リッカルド・フェッリ(418)といった錚々たるレジェンドが並んでいます。
サネッティの600試合の内訳は、セリエAが433試合(12得点)、コッパ・イタリア55試合(3得点)、欧州戦112試合(4得点)ですが、モウリーニョ・インテルのキャプテン・はその後も出場を続け現在603試合まで記録を伸ばしていますから、順調にいけば今シーズン中にも2位にランクアップしそうです。また、サネッティのインテル加入13シーズンに対して、1位のベルゴミは20シーズンに亘っての記録ですので、2シーズン後(37歳時)には新記録を達成しているかも知れません。
サネッティはアトランタ・オリンピックのメンバーで、4BKの恐らくRBとして全試合に出場し、銀メダルを獲得しています。北京五輪と逆の結果となったナイジェリアとの決勝戦(2-3)の出場選手は、
GKパブロ・カバジェロ(ウニオン・サンタフェ、エスパニョール、セルタ、レバンテ)
DFロベルト・アジャラ(アルゼンチン代表通算115試合7得点、ナポリ、ミラン、バレンシア、サラゴサ)
DFホセ・アントニオ・チャモ(45/2、ラツィオ、アトレティコ・マドリー、ミラン)
DFネストル・センシーニ(60/0、パルマ、ラツィオ、パルマ、ウディネーゼ)
DFサネッティ(121/5)
MFマティアス・アルメイダ(37/1、ラツィオ、パルマ、インテル、ブレシア)
MFクリスティアン・バセダス(22/0、ベレス・サルスフィエルド、ニューカッスル、テネリフェ)
MFクラウディオ・ロペス(55/10、バレンシア、ラツィオ、アメリカ、ラシン)
MFアリエル・オルテガ(89/17、バレンシア、サンプドリア、パルマ、リバ、フェネルバフチェ)
FWエルナン・クレスポ(64/35、パルマ、ラツィオ、インテル、チェルシー、ミラン、インテル)
FWウーゴ・モラレス(9/2、ラヌス、テネリフェ、インデペンディエンテ、アトレティコ・ナシオナル)
(58分)MFディエゴ・シメオネ(106/11、インテル、ラツィオ、アトレティコ・マドリー、ラシン)
で、カバジェロ以外はその後代表として素晴らしいキャリアを積んだ面々です。
これは、ジュゼッペ・ベルゴミの758、ジャチント・ファッケッティの634に次ぐ、インテル史上第3位の偉大な記録です。アルゼンチン、ブエノス・アイレス生まれ、22歳でクルブ・アトレーティコ・ベレス・バンフィエルドから移籍したサネッティが、インテルのようなメガ・クラブでこんなに長くプレーし続けているのは驚異的なことです。
4位以下を見ますと、サンドロ・マッツォーラ(565)、5位ジュゼッペ・バレジ(559)、6位マリオ・コルソ(502)、7位ワルター・ゼンガ(473、森本貴幸の所属する、今季好調なカターニャの監督ですね)、8位タルチシオ・ブルーニキ(467)、9位アレッサンドロ・アルトベッリ(466)、10位リッカルド・フェッリ(418)といった錚々たるレジェンドが並んでいます。
サネッティの600試合の内訳は、セリエAが433試合(12得点)、コッパ・イタリア55試合(3得点)、欧州戦112試合(4得点)ですが、モウリーニョ・インテルのキャプテン・はその後も出場を続け現在603試合まで記録を伸ばしていますから、順調にいけば今シーズン中にも2位にランクアップしそうです。また、サネッティのインテル加入13シーズンに対して、1位のベルゴミは20シーズンに亘っての記録ですので、2シーズン後(37歳時)には新記録を達成しているかも知れません。
サネッティはアトランタ・オリンピックのメンバーで、4BKの恐らくRBとして全試合に出場し、銀メダルを獲得しています。北京五輪と逆の結果となったナイジェリアとの決勝戦(2-3)の出場選手は、
GKパブロ・カバジェロ(ウニオン・サンタフェ、エスパニョール、セルタ、レバンテ)
DFロベルト・アジャラ(アルゼンチン代表通算115試合7得点、ナポリ、ミラン、バレンシア、サラゴサ)
DFホセ・アントニオ・チャモ(45/2、ラツィオ、アトレティコ・マドリー、ミラン)
DFネストル・センシーニ(60/0、パルマ、ラツィオ、パルマ、ウディネーゼ)
DFサネッティ(121/5)
MFマティアス・アルメイダ(37/1、ラツィオ、パルマ、インテル、ブレシア)
MFクリスティアン・バセダス(22/0、ベレス・サルスフィエルド、ニューカッスル、テネリフェ)
MFクラウディオ・ロペス(55/10、バレンシア、ラツィオ、アメリカ、ラシン)
MFアリエル・オルテガ(89/17、バレンシア、サンプドリア、パルマ、リバ、フェネルバフチェ)
FWエルナン・クレスポ(64/35、パルマ、ラツィオ、インテル、チェルシー、ミラン、インテル)
FWウーゴ・モラレス(9/2、ラヌス、テネリフェ、インデペンディエンテ、アトレティコ・ナシオナル)
(58分)MFディエゴ・シメオネ(106/11、インテル、ラツィオ、アトレティコ・マドリー、ラシン)
で、カバジェロ以外はその後代表として素晴らしいキャリアを積んだ面々です。


