奥寺康彦の日本代表入りは早く、72年7月のマレーシア協会主催の第15回ムルデカ大会グループリーグ第1戦カンボジア戦(4-1)、20歳のことで、現浦和レッズ社長の藤口光紀(慶応大)との交代出場でデビューし、第3戦のフィリピン戦では代表初ゴールを記録しています。
この大会、日本は準決勝で宿敵韓国に0-3と破れましたが、70年のウィルス性肝炎から復活した釜本邦茂がカンボジア(クメール)戦4点、スリランカ戦5点、フィリピン戦1点、ビルマ戦4点、マレーシア戦1点と5試合で15点を叩き込み、メキシコ五輪得点王である世界のストライカー「kamamoto」の名を、アジアに刻み込んだのでした。
奥寺が爆発したのが、24歳で向かえた76年8月の第20回ムルデカ大会、緒戦インド戦(5-1)で2点、第2戦インドネシア戦(6−0)で3点、第3戦ビルマ戦(2-2)で1点、第6戦マレーシア戦(2-2)で1点、攻撃低MFでプレーした32歳の釜本(6点)とのコンビネーションで13点を記録しています。
このチームは、76年モントリオールオリンピック出場に失敗し退陣した「長沼全日本(この頃は、こんな呼び方でした)」に代わり、ヘネス・ヴァイスヴァイラー氏と親交の深い、三菱重工の二宮寛氏が監督に就任したばかりでした。そして二宮氏が代表CFに起用したのが、椎間板ヘルニアを克服し、持ち前の弾丸シュートが復活したレフティー・ストライカー、奥寺でした。二宮全日本は5月に来日したマンチェスター・シティとの4連戦(76年5月21日0-3、5 月23日0-1、5月26日0-1、5月28日0-2)後マレーシア・クアラルンプールでの大会に臨みました。
緒戦インド戦のメンバーは
GK
田口光久(三菱重工)・・・2004年のアジアカップ第2戦タイ戦(4-1)で、川口能活が田口氏のGKとしての代表キャップ59回を更新しました。
FB
大仁邦彌(三菱重工)・・・現日本サッカー協会副会長
落合弘(三菱重工)
荒井公三(古河電工)
斎藤和夫(三菱重工)
HB
吉村大志郎(ヤンマー)・・・日本サッカーリーグ初の外国籍選手(67年6月)。03年11月1日急逝。
藤島信雄(日本鋼管)
釜本邦茂(ヤンマー)・・・現日本サッカー協会副会長。元参議院議員
FW
今村博治(ヤンマー)
奥寺康彦(古河電工)・・・現横浜FC代表取締役会長兼GM
永井良和(古河電工)・・・現浦和レッズ・レディース監督、永井俊太(柏レイソル)の父
この大会、奥寺は釜本と同室でストライカーの奥義を学びました。釜本の証言(サカマガJリーグ10周年記念コラム「日本人プロ第一号を作った男たち」伊東武彦著)によると、
『ムルデカでは、奥寺にどうやって点を取らせるかということからチームを作っていった。彼は自分がどう生きるのかを考え、周りは彼をどう生かすのかを考える。自分が生きるためには、周囲をどう使ったらいいか。それを彼が分かったからこそあれだけ点が取れたんだし、自分の形を作れた。チームの攻めの形というのは、そういった発想が原点になる』
とあります。奥寺の武器は、彼の左足から繰り出される驚くべき強シュートにあったのです。
サカマガ76年10月10日号より、第6戦マレーシア戦(2-2)のレポート。
『釜本がものすごいダッシュでバックスを抜き奥寺にダイレクトパス。これを奥寺がクリーンシュート。バックスもキーパーも全く動けない超スピードのシュートだった。「寸分の狂いもなかった。こんないいボールはない。ボールにさわる前に入ると思うようなことは、これが初めてだった」と、試合後の奥寺。』
また、翌年の欧州遠征で、1FCケルン合宿で同僚だった金田喜稔氏の証言によると、「ケルンではサイドから上げたボールをワントラップしてシュートする練習が多かったんだけど、奥寺さんはすごかった。センタリングを受けてワンタッチでベストのポイントにボールを置いて、左足でズドンと蹴り込む。とにかく膝下の振り幅が速い。ドイツ人も感嘆の声を上げるほどの威力だった。シューマッヒャーなど手が出ないほどだった。」
奥寺と釜本の活躍で、この大会歴代最高の準優勝を飾りました。
この大会、日本は準決勝で宿敵韓国に0-3と破れましたが、70年のウィルス性肝炎から復活した釜本邦茂がカンボジア(クメール)戦4点、スリランカ戦5点、フィリピン戦1点、ビルマ戦4点、マレーシア戦1点と5試合で15点を叩き込み、メキシコ五輪得点王である世界のストライカー「kamamoto」の名を、アジアに刻み込んだのでした。
奥寺が爆発したのが、24歳で向かえた76年8月の第20回ムルデカ大会、緒戦インド戦(5-1)で2点、第2戦インドネシア戦(6−0)で3点、第3戦ビルマ戦(2-2)で1点、第6戦マレーシア戦(2-2)で1点、攻撃低MFでプレーした32歳の釜本(6点)とのコンビネーションで13点を記録しています。
このチームは、76年モントリオールオリンピック出場に失敗し退陣した「長沼全日本(この頃は、こんな呼び方でした)」に代わり、ヘネス・ヴァイスヴァイラー氏と親交の深い、三菱重工の二宮寛氏が監督に就任したばかりでした。そして二宮氏が代表CFに起用したのが、椎間板ヘルニアを克服し、持ち前の弾丸シュートが復活したレフティー・ストライカー、奥寺でした。二宮全日本は5月に来日したマンチェスター・シティとの4連戦(76年5月21日0-3、5 月23日0-1、5月26日0-1、5月28日0-2)後マレーシア・クアラルンプールでの大会に臨みました。
緒戦インド戦のメンバーは
GK
田口光久(三菱重工)・・・2004年のアジアカップ第2戦タイ戦(4-1)で、川口能活が田口氏のGKとしての代表キャップ59回を更新しました。
FB
大仁邦彌(三菱重工)・・・現日本サッカー協会副会長
落合弘(三菱重工)
荒井公三(古河電工)
斎藤和夫(三菱重工)
HB
吉村大志郎(ヤンマー)・・・日本サッカーリーグ初の外国籍選手(67年6月)。03年11月1日急逝。
藤島信雄(日本鋼管)
釜本邦茂(ヤンマー)・・・現日本サッカー協会副会長。元参議院議員
FW
今村博治(ヤンマー)
奥寺康彦(古河電工)・・・現横浜FC代表取締役会長兼GM
永井良和(古河電工)・・・現浦和レッズ・レディース監督、永井俊太(柏レイソル)の父
この大会、奥寺は釜本と同室でストライカーの奥義を学びました。釜本の証言(サカマガJリーグ10周年記念コラム「日本人プロ第一号を作った男たち」伊東武彦著)によると、
『ムルデカでは、奥寺にどうやって点を取らせるかということからチームを作っていった。彼は自分がどう生きるのかを考え、周りは彼をどう生かすのかを考える。自分が生きるためには、周囲をどう使ったらいいか。それを彼が分かったからこそあれだけ点が取れたんだし、自分の形を作れた。チームの攻めの形というのは、そういった発想が原点になる』
とあります。奥寺の武器は、彼の左足から繰り出される驚くべき強シュートにあったのです。
サカマガ76年10月10日号より、第6戦マレーシア戦(2-2)のレポート。
『釜本がものすごいダッシュでバックスを抜き奥寺にダイレクトパス。これを奥寺がクリーンシュート。バックスもキーパーも全く動けない超スピードのシュートだった。「寸分の狂いもなかった。こんないいボールはない。ボールにさわる前に入ると思うようなことは、これが初めてだった」と、試合後の奥寺。』
また、翌年の欧州遠征で、1FCケルン合宿で同僚だった金田喜稔氏の証言によると、「ケルンではサイドから上げたボールをワントラップしてシュートする練習が多かったんだけど、奥寺さんはすごかった。センタリングを受けてワンタッチでベストのポイントにボールを置いて、左足でズドンと蹴り込む。とにかく膝下の振り幅が速い。ドイツ人も感嘆の声を上げるほどの威力だった。シューマッヒャーなど手が出ないほどだった。」
奥寺と釜本の活躍で、この大会歴代最高の準優勝を飾りました。
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2008/01/03(木) 05:20:25 | 最新ブログをまとめて検索


