オールドサッカーフリーク
「オールドサッカーについて語りませんか?(復刻版)」というヤフー掲示板に投稿を始めて6年になる者です。過去の投稿内容を中心に記録したいと思います。
オシム二度目の来日(No.1704)
イビツァ・オシムは、1991年7月、パルチザン・ベオグラードを率いて来日しています。「日本サッカー史資料編」を見ていて気付きました。

7月18日は大宮サッカー場で日本代表と第1戦を戦い1-1で引き分けています。どちらの得点もDFの選手で、パルチザンが32分、ブディミール・ブヤチッチ(27歳、190/84)、日本が現ヴェルディ監督、柱谷哲二(36分)です。

7月20日三ツ沢での第2戦は1-0。50分に、現レアル・マドリード、スポーティング・ディレクターで、当時期待のストライカーだったプレドラク・ミヤトヴィッチ(22歳、177/73)が決めています。

私はオシムの来日は、1964年の東京五輪以来だとばかり思っていましたが、90年のW杯でユーゴをベスト8に導き、騒乱のユーゴ情勢の中、引き続き代表監督を務める傍ら、パルチザンの監督を兼任していたこの時期、来日を果たしていました。

『イビチャ・オシムの真実』の中でオシムは、「当時、私はパルチザン・ベオグラードの監督でもあったが、惜しくもリーグ優勝をレッドスター譲ってしまったところだった。当時は引き分けの後に必ずPK戦をしていた。それで勝ちが勝ち点1、負ければ0。その結果、勝ち目のないアウトサイダーのチームはPK戦に持ち込むべく、守備一辺倒の試合をしたものだ。」と語っています。

パルチザンはPK戦を7度戦い3勝4敗、リーグ順位は3位でした。このシーズン、サヴィチェヴィッチ、ミハイロヴィッチ、プロシネチキ、パンチェフ、ベロデディチ、ジュキッチ、サバナゾヴィッチなどを擁するライヴァルであるレッドスターはリーグだけでなくチャンピオンズ・カップも制覇しています。

オシムは、W杯イタリア大会でアルゼンチンとのPK戦を控え室で待って以来、ずっとピッチを去るようになりました。たった一度、2001年1月のシーズン中断期間に行われたトルコ・アンタルヤ・カップの決勝で、シュトルム・グラーツが3-3でヴェルダー・ブレーメンとPK戦になった時、選手たちとピッチに留まった時がありました。シュトルムは3-4で敗れたのです。
コメント
この記事へのコメント
先日は、当ブログへコメント頂きありがとうございました。

パルチザンでの来日の時、練習を見に行っていた評論家に西部氏が
「紅白戦中、なかなかシュートが決まらない。しばらくして監督のオシムが”あそこだ”とパスコースを指示すると、見事に得点が生まれた。だからオシムの真骨頂は、攻撃の指導にあると思う」
という逸話を披露して、これからの日本代表の攻撃着手に期待を寄せていました。残念ながら、幻となってしまったわけですが・・・。

この頃の日本代表は、あの横山謙三時代ですね。
調べてみるとパルチザンとの対戦前にキリンカップで優勝しているんですね(ヴァスコ戦を私も京都で見に行ってました)。
まったくの暗黒時代、という印象しか持っていなかったのですが、光明もあたのですね。

東京五輪での話も、もっと出て欲しいのですが世間は昔は日本にサッカーがなかったと思っているようで(笑)、なかなか出てきませんね。
オシムをマークした鈴木良三がスクリーンされ「ボールがまったく見えねえよ」なんて試合中叫んでいたという話は、あまり伝わっていないオシムの現役時代を知る良いエピソードなのですが。

長文、失礼いたしました。
2008/10/09(木) 00:24:44 | URL | nike3 #-[ 編集]
横山時代
横山監督は、確かファン・サポーターから解任要求された最初の代表監督だと記憶しています。

動物園の豹の動きを見て研究したという、感覚派監督の采配は、結果だ伴わなかったこともあってあまり評価されなかったようですね。

しかし、メキシコ五輪三位決定戦での、PKストップが日本で唯一の勲章を手繰り寄せたことは間違いあちません。
2008/10/10(金) 17:16:45 | URL | 夏瑠斗・三浦 #-[ 編集]
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